1.世界遺産白神山地とは  2白神山地森林生態系保護地域設定に至る経緯 
3.遺産地域決定の経緯 4.入山規制問題論争集  5.世界遺産登録から1年の新聞記事から 
6.管理計画見直しを求める署名運動の概要と結果  7.見直しを求める要請書全文  
8.白神を巡る真の問題は何か  9.白神に学び、白神とともに生きる


The particulars that it reaches it for a setup of a woods ecosystem protection area of Mt.SIRAKAMI

(1992年自然倶楽部4月号掲載
「森林生態系保護地域に関する一考察」より抜粋、菅原 徳蔵記)

 白神山地は、秋田県と青森県の県境に位置し、白神岳(1,232m)、向白神岳(1,243m)、真瀬岳(988m)、二ツ森(1,086m)、小岳(1,042m)、青鹿岳(1,000m)、天狗岳(958m)といった標高千メートル級の山々が連なる山塊である。
 この白神山地を源流とする川は、赤石川、追良瀬川、粕毛川、大川、暗門川、津梅川、真瀬川、水沢川などブナ原生林の豊かな恵みを受けたイワナの宝庫として知られている。

 そこは、昭和55年代に至るまで本格的な開発を受けることなく、マタギや少数の登山者、沢登り、渓流釣りを愛する人々が入山する「秘境」の面影を残した広大な山域であった。
 この白神山地の中央部を貫通する「青秋林道」の計画が、昭和57年3月に発表された。秋田県八森町と青森県西目屋村を結ぶ総延長29.6km、総工費約31億円という計画である。

 青秋林道計画の推進母体は、八森町、西目屋村、鯵ヶ沢町、岩崎村の4町村長を発起人とする「青秋県境奥地開発林道開設促進期成同盟会」である。
 この中で八森町長は、昭和33年4月、奥地資源調査に参加し、赤石川源流域に広がる原生林に感動し、次のように地元の雑誌に書いている。

 「この膨大な森林資源が搬出困難のため幾百年もの間、種族保存のみに終始し、年老いた土に返った巨木の運命を顧みて、科学の発達した今日、その無為な生涯に、新しい生命をもたせたいと思った」

 今から30年以上も前に師は、眠れる膨大な資源に着目していた。
 そして、今日、木材不況、乱獲のツケによるハタハタの激減、農業の衰退によって過疎の深刻な悩みをもつに至り、白神山地の眠れる資源に最後の望みを託した。
 その結果、「促進期成同盟会」の結成を熱心に推し進め、そのイニシアティブをとったのは、外ならぬ八森町の町長であった。

 昭和58年11月、八森町、峰浜村、深浦町は、白神山地周辺の町村の総意を結集し、組織を強化していった。
 また、秋田県の地元住民は「青秋林道を促進する会」を結成し、精力的な陳情活動を展開していった。

 一方、自然保護団体は、昭和57年「秋田県自然を守る会」と「秋田県野鳥の会」、「青森県自然保護の会」と「日本野鳥の会弘前支部」がそれぞれ県に対して林道建設反対の要望書を提出した。

 昭和58年1月には「白神山地ブナ原生林を守る会」(秋田県)、4月には「青秋林道に反対する連絡協議会」(青森県)を結成し、強力な反対運動を展開していった。
 マスコミもこの問題を大きく取り上げ、「白神山地の原生的なブナ林の保全運動」は国民的な盛り上がりをみせていった。

 昭和60年6月、後に「秋田方式」と呼ばれる「ブナ・シンポジューム」が開催された。
 そこでは、日本の基層文化を生み出した母胎としてブナ林の価値が再認識され、「ブナ帯文化論」や「遺伝子貯蔵庫論」など文化史的な思想や、ユネスコのMAB計画や地球環境の危機を背景に、白神山地ブナ原生林の保全運動は「新たな質」を獲得していった。

 昭和61年8月、林野庁は「白神山地森林施業総合調査報告書」を発表、これは国有林野行政の大転換の時代に突入したことを示唆していた。
 だが、秋田工区の林道建設は既に県境域に達していた。
 昭和62年5月、保安林解除の申請手続きをとり、同年10月青森県は保安林解除を告示し、反対派にとっては極めて差し迫った事態を迎えるに至った。

 これに対して、反対派は1万3千余通にのぼる意義意見書を集約し、公開聴聞会の開催を求める運動を展開していった。
 それは、白神山地ブナ原生林の保全という、自然保護運動にとって革命的な成果へと結実していった。

 昭和63年12月「林業と自然保護に関する検討委員会」が発表され、この中で白神山地や玉川源流部など全国12ケ所を森林生態系保護地域に指定する新たな考え方を打ち出した。
 平成2年3月15日、県議会農林水産委員会で、昭和62年から工事が凍結されている青秋林道の工事再開を断念せざるを得ないことを初めて公式に表明した。
 そして、平成2年3月31日、白神山地森林生態系保護地域設定案は、申請どおり承認され、新たな時代を迎えるに至った。

 マスコミは、「原生林と共存の時代へ」「世論の求めによる英断」といった見出しとともに「消えた青秋林道」「白神のブナは残った」といった特集を組み、大々的に報道している。

 時代とともに高まる自然保護運動を背景に「過疎からの脱却」を掲げた青秋林道の建設は夢と消えたのである。

(参考文献)
1.「白神山地ブナ帯域における基層文化の生態史的研究」(平成2年3月、研究代表者掛谷誠弘前大学人文学部教授)

2.「ブナ帯文化」(梅原猛ほか、思索社)

 こうした、過疎に悩む村の最後の切り札として登場した青秋林道の建設、そしてそれを阻止した自然保護運動の高まり、無名の山が一気に全国のスターに伸し上がっていくストーリーは、まるでドラマをみるような劇的な展開をしている。
 青秋林道を中止へと追い込んだ最大の原動力は、入山規制をして自然を守る論理ではなく、「わがふるさとの山と川を守る」あるいは「自然と人との共生と文化を守る運動」として、地元と中央の団体が一体となって運動を展開した結果である。

 

「保護か開発か」の段階では、「保護」が勝利を納め、めでたくこれで終りと思われたが、自然環境保全地域、世界遺産への登録へと一気に加速し、運動に参加した地元の人々や自然保護団体、登山、沢登り、渓流釣り愛好家たちを締め出す「入山規制」が強化されていった。
 これは、まるで敗北したはずの林野庁の逆襲のように見える。こうした経緯をしっかり踏まえて、白神山地の入山規制を考えたい。

1.世界遺産白神山地とは  2白神山地森林生態系保護地域設定に至る経緯 
3.遺産地域決定の経緯 4.入山規制問題論争集  5.世界遺産登録から1年の新聞記事から 
6.管理計画見直しを求める署名運動の概要と結果  7.見直しを求める要請書全文  
8.白神を巡る真の問題は何か  9.白神に学び、白神とともに生きる
 

 

 

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