食の民俗1 食の民俗2 食の民俗3 食の民俗4 山釣り紀行TOP


川魚その2・・・カジカ、アユ、クニマス、サケ、ヤマメ、イワナ/ハタハタ/狩猟民の感覚を持った宮沢賢治・・・完結編
カジカ
 写真は、北海道日高・ヌビナイ川のハナカジカ

 川の中流から上流域に生息、清流で石の多い瀬を好む。水生昆虫などの小動物、小魚などを食べる動物食性。産卵期は3〜6月。かつて山村では、カンテラを提げて夜の川を歩きカジカを突く遊びは、初夏の風物詩だった。渓流には、もう一種カジカガエルが生息している。鹿のような声で鳴くことから「河鹿」と書く。写真の大きなハナカジカは、秋田には少ないが、北海道には数多く生息している。どちらも一夫多妻制で、産卵後に卵を守る習性がある。
 写真:清流水沢川のカジカ突き・・・流れの速い瀬でカジカを見つけるには、伝統的なガラス箱は必携品。通常は石の下に隠れているが、生息数が多いと、石の上にカジカが遊んでいる。

 カジカは夜になると、岸に寄ってきて眠る。川の瀬にガラスをはめた舟型の箱メガネを浮かべ、カンテラの光で川底を照らし、石底に棲むカジカを探してヤスで突く。これを「夜突き」とか「ヨカジカ突き」と呼んだ。中には、カンテラを持たず、カジカ用の網ですくう人もいた。腰から下が水に濡れるが、一晩に一升も獲れたから皆病み付きになった。しかし、近年は夜突きが禁止になっても、カジカの姿がめっきり減ってしまったのは寂しい限りだ。
 秋田では、渓流釣りでカジカが釣れるということはまずない。それだけ数が少なくなったからだが、日高・札内川では驚かされた。札内川支流記念沢は、オショロコマではなく、カジカばかりが釣れた。あんな奥でカジカが群れていたとは・・・しかもオショロコマとカジカがちゃんと棲み分けされていた。これはどういうことなのか、いまだ謎である。(写真:札内川と記念沢が合流する二又、焚き火でオショロコマとカジカを焼く)
 
カジカの石焼き(岩見川)・・・木製の桶に水と味噌を入れ、生きたままのカジカを放す。焚き火で焼いた河原の石を数個、桶の中に放り込む。石の熱で桶が沸騰し、ほどなく煮える。実に豪快な料理で、アユやイワナも同様にして石焼きにした。土地の人たちは、石コロからもダシが出るから美味いと自慢する。

カジカの空揚げ(写真左)…空揚げにすると骨まで火がとおり、丸ごと食べられる。カジカのウロコをとり、内臓を取り除く。水気を切ってから塩を少々ふり、なじむまでしばらくおく。片栗粉をまぶし、油でカリッと揚げる。

カジカの佃煮・・・水煮してから、醤油、砂糖、ミリンで味付けし、骨まで柔らかくなるまで煮詰める。子どもも喜んで食べた。他にカジカ鍋、塩焼き、骨酒など。
アユ
 スマートな容姿と淡白な品のいい味から、川魚の女王と呼ばれている鮎。秋に卵から孵化した鮎の仔魚は、流されるように川を下り、河口付近の海で育ち、春になると再び群れをなして故郷の川に戻ってくる。秋田では、今でも夏を告げる味覚として珍重され、釣り以外に刺し網、四つ手網、ヤナ漁などが行われている。もちろん養殖も。

▼粕毛村の鮎・・・「この村の奥の鮎は素晴らしく大きく、一尺以上のものは珍しくない。普通のものは下唇が延びて、上唇の外に出ているのに、ここの鮎は反対に上唇が鉤になって下唇を蔽っている。それを村人は南部の鮭の場合のように「鼻曲がり」と称している。」(「秋田郡邑魚譚」昭和15年、武藤鉄城著)

アユの鵜飼い漁・・・鵜飼いと言えば、長良川が有名だが、江戸時代の頃は秋田でも盛んに行われていた。一人一鵜で、川下から石を下げた網を回してアユを追い込み、網の内側に鵜を放してアユを獲らせる。あるいは、網ではなく20mほどの太縄に河原石をたくさん下げて、大勢で川いっぱいに上流に向かって引き、時々鵜を離して獲らせる漁法だった。記録では、明治、大正の頃まで行われていたと記されている。何と、田沢湖町田沢では、イワナを捕獲する「鵜追い」が行われていたという。これはイワナの項で記す。
アユの刺身(写真左)・・・三枚におろしてから背骨をとり、あばら骨を抜く。胴を6つほどに斜めに切り、頭と尾を添えて千切り大根の上に盛り付ける。

アユのウルカとタタキ(写真右)・・・ウルカとはアユの塩辛のこと。心臓と肝臓を除いた内臓を塩とよく混ぜ合わせ、壷やビンに入れて密封し1年くらい保存したものが旬。タタキは、内臓を取り除いた身と骨を魚包丁で細かくなるまで何度もタタキ、ニンニク味噌混ぜ合わせて食べる。いずれも酒のツマミとして絶品だ。アユのタタキは、イワナにも応用できそうだ。
アユの甘露煮(写真左)・・・平らな鍋の底に笹の葉を敷き、アユを並べ、中火で4,5時間煮る。柔らかくなったら、砂糖、醤油を加え、煮汁がなくなるまでじっくり煮込む。またアユの田楽も美味い。アユを串に刺して炭火で焼く。これに味噌と砂糖、ミリンを加え、弱火で練り上げた味噌を塗り、再び少し焦げ目がつくまで焼き上げる。

アユ寿司(写真右)・・・内臓を取り除き、塩をきついくらいに入れて2,3日漬ける。米一升のご飯に米麹五合を混ぜ合わせた寿司飯を作る。塩漬けにしたアユをよく洗い食酢に浸してから、軽く水洗いする。樽に笹の葉を敷き、寿司飯を薄く入れ、その上にアユを並べ、細切りにしたニンジンやショウガを適当にふりかけて、交互に漬け込んでいく。一番上に笹の葉を敷き、重石をのせて1ヶ月余り発酵させる。手間が掛かるだけに、これまた絶品。 
幻の魚・クニマス
 田沢湖畔の古老たちが語るクニマス・・・湖の特産で、体色は全体に黒っぽいが、斑点はない。普段は深さ20〜160mもの深いところに生息、産卵期になると浅場に移動した。体形は川マスに似ていて、体長は平均30センチ前後。肉はやや桃色。卵は800粒内外。大きな特徴は、尾のつけ根の部分が幅広いこと。その後、ヒメマスと交配され、原種の面影がなくなったといわれる。漁期は、毎年大寒前後に行われた。

 クニマスは日本一深い田沢湖に生息しているため、その生態は謎が多い。摂氏4度前後を遊泳、冬は深さ30m前後、春と秋は50〜70m、夏は何と200mもの深さを泳いでいたとの記録もある。特に珍しいのは、産卵が四季にわたっている点だ。地元の古老は、盛夏の産卵を土用掘り、秋の産卵を木の葉掘り、冬季の産卵を寒掘りと呼んだ。毎年2月から5月に漁が行われ、採卵ふ化が行われた。

 文化年間には、日に数千尾もとれたことが記録に残っている。文化二年には、角館佐竹家から秋田の藩公と江戸にクニマスの塩漬けが送られた。昭和に入ってから、クニマスの燻製を作る講習会が開かれた。しかし、クニマスの皮が堅く、肉が深魚のためか柔らか過ぎて大量に作るまでには至らなかった。
 左上:湧出量日本一を誇る玉川温泉。PH1.3の強酸性泉で、昔から「玉川毒水」と呼ばれた。
 右:平成7年、絶滅した「クニマス探しキャンペーン」のポスター(田沢湖町観光協会)。西部劇でおなじみの「おたずね者探し」に似せたユニークなポスターで話題を呼んだ。平成9年には賞金を500万円に引き上げたが、確定的な情報はなく、平成10年12月にキャンペーンにピリオドをうった。

 昭和元年、クニマス3尾が、京大川村教授を経て世界の魚類学の権威・ジョルダン博士に送られた。クニマスの分類学的研究が行われ、同湖のクニマスは、学会未知の新種と断定、オリコンカス・カワムレーと命名された。大島正満博士もジョルダン博士の説を支持し、クニマスは世界に類例を見ない学界の希少種であるとした。

 昭和15年1月、電源開発と玉川疎水国営開墾事業により、玉川の酸性水を田沢湖に導水し、毒水を希釈する方法が実施された。当初は一定の効果をあげたものの、田沢湖の酸性化が進み、世界で田沢湖にのみ生息していたクニマスも姿を消してしまった。以来、永遠に見ることも、食べることもできない幻の魚になってしまった。

▼クニマスの味・・・意外にも、海で獲れた魚を食べ慣れている人には余り美味しくなかったという人もいる。というのも脂の出る魚ではなかった。ただしヒメマスの味と遜色なかったという意見が一般的な評価だった。好き嫌いもあるが、かなり美味い魚であった。料理は焼いて醤油で食べるか、クニマスかやきなど。地元では、普段ご飯のおかずとして食べる魚ではなく、お祝いや正月料理などに使われた。獲ったクニマスは、ほとんど売っていたようだ。
サ ケ
 江戸時代は、藩が専用にサケをとるために、雄物川の一部を留川とし、庶民はとることを禁じられていた。明治に入ると、川原にナヤ(魚舎)が建てられ、サケをたくさんとった。そのナヤから買ってきたサケに塩をふり、コモに巻いて、土間の梁木へ荒縄でグルグル巻きにして吊るす。下の囲炉裏で燻製にした。

 大曲の人たちは、晩秋になるとサケ網見物に出掛けた。最大の楽しみは、漁場の魚屋に寄り、新鮮なサケ料理をツマミに一杯やること。ヒズナマス、ハララゴ、白子と大根汁醤油、骨の味噌タタキ、味噌汁、焼き魚など、サケづくしを満喫した。当時「ザッコ博士」と呼ばれた高橋孫太郎さんは、雄物川でサケをとるとき、何とマタギの呪文と同じように唱えごとをしたという。「今日のハツヨ(初鮭)一万五千本/このハナ大エビス大エビス」と二回唱えて、とったサケをたたき殺してとったと記されている。
 かつて雄物川沿いの農家は、堆肥を増産するための草刈舟を持っていた。サケが上る季節になると、この舟を利用してサケを1軒当たり20匹ほど獲った。このサケが獲れだすと、村ではエビス講がはじまり、獲れたてのサケの胸ヒレを神に供えた。農作業を手伝ってもらった人を招いて、サケ料理などで豊作祝いをやった。残りのサケは、腹を割って塩をかませ、樽に漬け重石をして塩鮭を作った。

 角間川では、手の込んだサケのアンかけ料理や皮巻き。角館では、祝儀の最高級品「オカワまき」にサケを使った。豆腐と生サケのすりみ(魚肉)を混ぜたものに、サケの皮でまき、2時間余り蒸して作った。見た目も美しく、大変美味しかったらしい。
サクラマスとヤマメ
 写真:森吉町粒様沢源流のヤマメ

 サクラマスとヤマメは、同じ種だが、河川に残ったものがヤマメ、海に降りたものをサクラマスと呼ぶ。これは降海するイワナをアメマス、河川陸封型をイワナあるいはエゾイワナと呼ぶ習わしに似ている。サクラマスの遡上は4〜6月、融雪や梅雨の増水を機に開始され、産卵期の9月下旬まで河川で過ごす。稀に、秋に遡上し産卵するものもいる。

 海へ下る個体は、銀毛化(スモルト)することによって、パーマークが消え、大高が低く、背びれと尾びれが黒くなるなどの形態的変異が起きる。一般にメスが多く、成熟の早いオスは銀毛化しない個体が多い。つまり、河川残留型のヤマメは、圧倒的にオスが多い。

 粒様沢のような場合は、下流にダム湖・太平湖があり、湖が海の代わりをしている。沢でスモルトとなって湖に降り、そこでワカサギなどを飽食し、降海型と同程度に大きくなる。秋になると、沢に遡上して残留個体・ヤマメと繁殖する。
 写真:森吉山麓のヤマメ

▼キリギリ・・・古い記録では、桧木内川でとれる銀毛ヤマメを「キリギリ」と呼んでいた。「キリギリ」とは妙な名前だが、アイヌ語で「白い砂」の意味があるという。銀毛ヤマメを白砂ヤマメ・・・と考えれば、なるほどと思う。生まれてから二年後のものを「キリギリ」、三年後になると「ヤマベ(ヤマメ)」と呼んでいたようだ。中でも肌色をしている魚は「ヨハダ」と特別な名で呼び、川魚の中で最高に美味しい魚とされた。田沢湖町院内川上流大黒沢でとれるキリギリは、最高の味だったという。ちなみに秋田で「ヤマベ」と言えば、オイカワではなくヤマメのことだ。
山村の暮らしに密着した川魚の筆頭・・・イワナ
 イワナは、人里離れた深山幽谷に棲み、数々の伝説を持つだけに、神秘的なイメージがつきまとう。しかし、度重なる移植放流の歴史や「盆魚」の風習、イワナ職漁師など、山村の暮らしに最も密着した川魚の筆頭であった。昭和15年に発刊された「秋田郡邑魚譚」武藤鉄城著)の一部を抜粋する。

▼イワナの共喰い、アダ喰い・・・共喰いといっても、勢力を争うて喰いつくものではなく、真実に飢えてかじりつくものらしい。人影を見て逃げた大きな岩魚が穴へ入って見ているところへ、浅いほうから小さな岩魚が逃げ込むと、頭からかぶりついて、躯体二つに頭一つの怪魚のような格好して水底を動き廻ることがある。

 ・・・岩魚のアダ喰いは、誰でも知っている。夏の暑熱の頃など、小蛇が渓流を渡り、流れまいと横ふりしているそのアゴ筋にかぶりつく。そのような凶暴性から、岩魚の棲む淵には、他の魚は居ないと言われる。

 春が来れば、去秋の事情とは反対になる。即ち岩魚は育ち次第、その場所が窮屈になるので、雪代水が溢るを幸い下って、適当な淵を見つけて棲む。それ故、遡上の場合とは反対に、上に小さいものが残り、下の大きい淵ほど大きなものが頑張っていることになる。・・・
▼生保内川の岩魚・・・生保内川に棲む岩魚は、その沢目によってヒレが目立つほど赤く、他と区別できるものがある。中生保内の口から駒ケ岳に登攀すると間もなく十丈の滝がある。その滝上に魚は絶対生息しなかったが、よほど前に村の某が岩魚を持って上って放流した。それが増えて、現在は相当いるという。

▼堀内沢・・・熊の生息地として有名で、その奥約900mほど高所に角館町の有名なマタギ犬飼養家であり、狩猟家である宮本彰一郎氏のマタギ小屋があるが、昭和10年、同氏はその小屋の前の渓流まで遡ってきた一尺二寸の鱒を突いたことがある。

▼テンカラ・・・岩魚は同類相食むもので、小さいものは大きいものに喰われてしまう。これをテンカラで釣る秘法に、上瀬釣り、下瀬釣り、淵釣りの三つがある。岩魚のうちには、必ず王がいる。それは大きな石の上に頑張っている。もしその王を先に釣ると、小さいものは皆逃げてしまう。上ノ瀬に王あらば、下ノ瀬から釣り始める。反対に下ノ瀬に王あれば、上瀬から釣る。そして最後に王を釣らねばならない。

▼岩魚釣り・・・竿は二間半くらい、糸は竿より短くして餌は川虫、クモなどである。上から釣ると敏感で人影に驚いて逃げる故、下流から釣って行くのである。それは岩魚もヤマベも、平常上を向いて泳ぎ、もっぱら虫を狙っているからである。

▼根子部落の岩魚・・・ネッコは有名なマタギ部落である。・・・岩魚を手づかみにして獲ることを、ウチカウという。一尺以上もあるものを、手を入れ、エラに指を突っ込んで引き出す豪快なものである。・・・マタギは豊猟な人を「エビス利く」というが、魚獲りの場合でも、同じ意に使用する。
 鹿角地方の黒沢川や米代川などでは「イワナ、カジカ、ドジョウ、ナマズ、カニなどがとれるので、これを上手にとり、食事に利用する。・・・とってきたイワナは、ぴちぴちして鮮度のいいうちに一匹づつ姿よく串にさして焼き、20匹ぐらい箱に並べて、粉炭と一緒に背にのせて花輪へ運ぶ。値段は魚の長さ一寸いくらで取引され、おおよそ一回で70銭くらい手に入る。期間は5月から8月のお盆すぎまでで、月に5、6回は出掛ける。

 ・・・たいていの家では、日中、川遊びで子どもたちのとった川ガニ、イワナ、カジカを焼いて、味噌貝焼きにして食べるくらいである。数が不足で家族全員の口に入らない時は、焼いたものをベンケイに刺しておき、みんなにいきわたる量をためてから食べるように気を配る。大漁で余った時も、ベンケイに刺しておく。」「聞き書 秋田の食事」(農文協)
 このようにイワナは、美味な魚だけに、温泉や旅館、病院などで高く買ってくれたので、山人の貴重な現金収入になった。こうしてイワナ釣りを生業とする職漁師も数多く輩出した。また一般の農家では、親たちが農作業に忙しく川漁をする暇がなかった。そこで子どもたちが川遊びでとってきた川魚は、家族全員の大事なおかずになった。現代の魚釣りは、単なる遊びと化してしまったが、かつては、子どもの川遊びとはいえ、貧しい山村で生きていくためになくてはならない子どもの仕事だった。

イワナの「鵜追い」(追込み漁)(田沢湖町田沢)・・・晩春から梅雨にかけて行われたものだが、本物の鵜を使うのではなく、鵜に見せかけ追い込む漁法。4mほどの竿の先を尖らせ、約50センチほど下にカラスの羽あるいはイタチの毛皮、ブドウの皮などを巻き付け、鵜の体にみせる。その下60〜80センチほど離して同様のものをつける。その竿を持ち、静かに淵に入り、水中を突き回す。イワナは鵜と思い、逃れようと下流の瀬に逃げる。その下流でカジカ網を張って待ち、すくいとる。何ともオモシロイ漁法だ。

▼俗世から隔絶された奥地・田沢湖町玉川部落の特異な慣習「盆魚」については、源流イワナ料理講座の「秋田イワナ民俗誌」の項に記しているので参照願いたい。
 写真:渇水の小沢の魚止めで、岩穴に隠れたイワナを河原に転がっていた棒切れで突き、穴から出てきたイワナを川虫採り用の網で捕獲したイワナ。(昭和63年9月)

イワナの手取り・・・これは秋田ではなく小国の民俗風土記に書かれていたものだが、秋田と同じなので概要を記す。晩秋になると、イワナは産卵のために小沢に上る。イワナは、産卵する小さな淵をきれいにする習性があるので、ベテランならすぐに分かる。もし水量が多ければ、半分くらい脇を流れるようにすればよい。イワナの隠れていそうな岩を見つけ、手を突っ込んでつかまえる。

 確実にいる魚なので、失敗は少ない。しかし、相手は生き物、必死で逃げるので、つかみ損ねる場合もある。そんな時は、柴を一本折り、その枝をはらって、岩穴を滅多やたらと突きまくる。そうすると、イワナも苦しくなって岩から出て、下流に下る。そこに網をかけて置きすくいあげる。原始的ではあるが、時期さえあえば、半日で20匹くらいはつかまえられる。
イワナコウベ酒(鳥海山麓)・・・焼いたイワナの頭をタイのコウベ酒と同じ方法で、イワナのコウベ酒を飲んだ。酒の味に清流イワナのエキスが溶け込み絶品。

イワナの笹焼き(森吉町)・・・渓流でイワナを釣り、その場で持参した味噌をイワナに塗り、何枚も笹の葉でくるみ、焚き火で焼いて食べる。笹の葉の香りがイワナにしみ込んで風味満点の即席料理だ。他に石焼き、塩焼き、刺身、燻製、かやき、味噌汁、腹わた漬けなど。

イワナと百宅そば(鳥海村)・・・マタギの集落に伝わる百宅(ももやけ)そば、山麓の「霧下そば」と呼ばれている。いつも霧がそば畑に下りるから、特に美味い。そばの実を木臼に入れて棒でよくつき、石臼を引いてそば粉を作った。その百宅そばのダシに、春から秋は、渓流で獲れるイワナを焼いて干したものを使った。冬は、山鳥、山ウサギ、キジなどの肉を串に刺して焼いた鳥獣の肉からダシ汁を作った。

クサギ・・・魚はイワナぐらいしかなかった奥地・田沢湖町玉川では、海の魚がほとんど手に入らなかった。稀に塩物が村にくると、身だけを食べ、魚の骨はきれいに残した。この骨に塩を混ぜ、刻んで骨タタキにした。タタクとき、青いサヤのついたままのシソの実を入れ、よく混ぜてからたたいた。こうすればシソの香りで魚の臭みが消えるという。これを熱いご飯か、湯づめにして食べた。これを「クサギ」と呼んだ。食べることの可能な限界ギリギリまで美味しく調理し、カルシウムを補給する「クサギ」とは・・・貧しい農山村の暮らしから生み出された涙ぐましい調理法だ。
 アメ流し(毒流し)
 秋田では、毒流し漁を「アメ流し」と呼んだ。毒流しと聞けば、何やら少人数でとる密漁みたいな印象を受けるが、昔の記録をみれば、村の行事のごとく共同で行われていた。「山村の八十年 マタギの里」(越前谷武左衛門著)には「アメ流し」について詳しく記されているので一部抜粋する。

 「大正4年の夏、・・・4部落の親方達が相談しアメ流しをすることになった。・・・マスヤスを担いで大勢で歩いて行き、大和淵の下の浅瀬でナダラを足で踏んでトコロの汁を揉み出した。百人以上もの人がマスヤスを突っ張ってトコロを踏んでいるのは壮観だった。

 トコロの汁で弱って岸に寄ってくるのはマスばかりではない。アユやハヤ・ヤマメ・カジカ等を持った人は小魚に目もくれず、専らマスを突き刺して上げる度に歓声が上がった。マスを見つけて突こうと身構えた時、足が滑って失敗したり、一匹を何人もが突いて言い争いになることもあった。・・・

 アメ流しは、トコロの根のほかにも山椒の木の皮でもやった。皮を乾かして砕き、粉を作る。木灰を混ぜて川に流せばよくきいた。子どもの頃、夜に裏の畑で火を焚いて大人たちが4,5人で山椒の粉作りをしたものである。私が15歳のころ、この山椒のアメ流しに行った。

 ・・・東の方と思われる沢で、山椒の粉と木灰を等量に入れた木綿袋を水に入れて揉んだ。濃い茶色の汁が沢に流れ、イワナが弱って出てきた。なかには40センチ程もある大きなのが、苦しがって夢中で水面を下って来て、陸へ跳ねてバタバタしているのもあったし、次から次と出てサデ網ですくうのが忙しかった。・・・魚がいなくなるとまた袋を揉む。また利いて出てくる。それを繰り返した。

 ・・・アメ流しの遊びもあった。子供等が学校帰りの途中、萱草沢でよくやった。そこからクルミの葉をとってきて、沢の岸で石でよく叩き潰すと、赤茶色の汁が出る。これを流すとカジカが弱って岸に寄ってくるのでつかまえるのである。小柴を鍵のように作って、大きいのから順にエラに通して持ち帰った」

 アメ流しは、盛夏の7〜8月頃、晴天が続き沢の水が少なくなった頃に行われた。毒流しとは言っても、現代のような青酸カリや農薬といった劇薬とはまるで違う。自然から採取した材料だけに毒性が弱く、一時的に神経麻痺を起こすが、ある程度時間がたつと魚は蘇生した。だからできるだけ水量の少ない渇水期を狙い、しかも小さな沢で行わないと効き目がなかった。この他に、カジカと同じ夜突きも盛んに行われた。もちろん現在では、アメ流し、夜突きとも禁止されている。
阿仁・鈴木正雄さんが語る川漁 ・・・「マタギ 森と狩人の記録」(田口 洋美著、慶友社)
 ・・・川では主にイワナ、ヤマメ、カジカですな。・・・昔、夏の暑い盛りにヤスなんか持っていってよくマスを突いてきたもんです。カジカなんかも獲ってくると、焼いて長い竹の串にいくつも刺して、ワラで作った弁慶に何本も刺しておいて、カラカラになるまで乾燥させて汁なんかの出汁にしたもんです。煮干しの代わりですな。

 昔の人方はあれでしょう、川で魚獲ったり、山で獣獲ったりすれば、それを燻製にしたり、干したり、塩漬けにしたりして保存したもんです。昔は冷蔵庫なんていうものがありませんでしたから、どうしても保存するとなればそういう方法であったすな。
秋田のマタギ集落
 「マタギ 消えゆく山人の記録」(太田雄治著、慶友社)によれば、秋田県内のマタギ集落は、八幡平、和賀山塊、焼山・栗駒山が連なる奥羽山脈、森吉山、太平山、鳥海山麓に集中している。この分布は、熊やウサギなどの野生鳥獣とイワナの生息分布と重なっていることが分かる。

▼北秋田郡のマタギ・・・根子、荒瀬、萱草、笑内、幸屋渡、比立内、戸鳥内、中村、打当、阿仁前田、小又、森吉、砂子沢、萩形、金沢、大湯、大楽前の各集落。

▼仙北郡のマタギ・・・上桧木内、戸沢、中泊、堀内沢、下桧木内、西明寺、潟尻、玉川、小沢、田沢、生保内、刺巻、神代、白岩、中川、広久内、雲沢、大神成、栗沢、豊岡、湯田の各集落。

▼由利郡のマタギ・・・百宅、上直根、中直根、下直根、猿倉、上笹子、下笹子、小友の各集落
▼雄勝郡のマタギ・・・東成瀬
▼平鹿郡のマタギ・・・山内村三ツ又、南郷。
山の幸に依存した食文化・・・学びの宝庫
 秋田の山村では、積雪が多く麦類などの冬作はできない。こうした村々では、アワや冷水がかりのヒエ栽培を行い、山菜、きのこなどの山の幸に依存した食文化が発達した。また、数多くのマタギ集落にみられるように、山の動物や川漁への依存度が高いのも秋田の食文化の大きな特徴と言える。
 写真:ブナの倒木に群生したナメコの山

 農業の合間に、春は山菜採り、夏は川漁、秋はキノコ採りに精を出すのが一般的なパターンだった。これは、季節を味わう、あるいは自然の幸を味わう、という側面もあっただろうが、むしろ食の素材が生産できない冬を乗り越えるために不可欠な食糧でもあった。それがために、秋になると、熊が冬眠に備えて山の幸を貪るように山野を駆け巡り、採取した山の恵みを保存・加工する知恵と技術には、雪国ならではの個性があった。
 ミズバショウは、全草が有毒に分類され「食べると口がはれ、腰痛を起こし下痢する」と書かれている。ところがこの草も食べていた記録があった。由利郡矢島町の一部で、この葉の若芽を、米の白水でゆでて、味噌和えなどにして食べたという記録には驚かされる。旧藩時代の百姓が、いかに貧しい食生活であったか、想像にかたくない。
 昭和に入っても、冷害、凶作が2年、3年と続くことは珍しくなかった。飢饉が末期に入ると、食べられるものは何でも食べた。だから食アタリ、食い合わせ、栄養不良などの病人も多く、死者も出た。家族のように飼育してきた牛馬などを食べるようになると、末期的な飢餓状態とされた。人々は、凶作に備え、備蓄や食いのばし、食べられる野生動物、川魚、木の実、草の根、きのこなど、あらゆる自然物を捨てることなく全て利用し尽くす知恵と工夫には驚かされる。こうした食の民俗誌は、山釣りをめざす現代人にとっても「学びの宝庫」と言える。
番外編 蘇ったハタハタ
 写真:はちきれんばかりのブリコ(卵)を抱くメスのハタハタ(八森町産)

 「秋田名物八森ハタハタ、男鹿で男鹿ブリコ」と秋田音頭にも謡われたハタハタは、江戸時代以前から秋田の食卓になじみの深い魚である。冬の雷が鳴る頃にハタハタが沿岸に集まるので、別名「カミナリウオ」とも呼ばれている。海が荒れる危険な時期にもかかわらず、ハタハタ漁は、慶長年間の文献にもその名が登場し、献上品としても200年間にわたって秋田の特産品を代表してきた。かつては、豊漁が続き、獲れ過ぎで価格が暴落、「箱代にもならない」と言われるほど大漁貧乏が続いた時期もあった。

 だが、長い歴史を誇るハタハタ漁だが、開発による海洋環境の変化と乱獲などがたたって激減、大衆魚から一転高級魚になってしまった。この時、過去の大漁は、もはや昔話だと誰もが思った。やむなく、1992年から3年間、自主禁漁に踏み切った。解禁後は、乱獲を避け、資源量の約半分を漁獲可能量として配分してきた。そのかいあって、資源量を着実に増やしてきた。2004年12月、夢にまで見たハタハタの大群が怒涛のように押し寄せてきた。今、漁民も県民も「蘇ったハタハタ」に沸いている。
 ハタハタは、11月下旬から12月中旬にかけてやってくる。日増しに冷え込みが厳しくなるから、腐敗する心配がなかった。漁場から山の奥地までくまなく輸送された。江戸時代、藩は庶民の食生活の驕りを戒めたが、ハタハタだけは例外だった。

 余りにも豊漁の時は、生ではなく塩漬けにして送った。海から6,7日もかけて遠い山間奥地へ、塩ハタハタにして売りさばいた。これを「エンチコハタハタ(塩致候ハタハタ)」と呼んだ。ブリコとは、ハタハタの卵の塊のこと。噛むと「ブリブリ」音がする。特に歯が丈夫な人が食べると、オモシロイほど「ブリブリ」・・・といい音がした。

▼魚汁(しょっつる)貝焼き…塩魚汁は、ハタハタ鍋に欠かせない調味料。ハタハタを塩漬けにし、発酵させて作る上澄液で、醤油の代用として用いた。このショッツルこそ、秋田の食を代表する調味料だ。かつては、各家庭の主婦の腕前を見せる自慢の味であった。頭と腸、尾をとって、鍋に大量に入れ、かぶるくらいの水を入れて煮る。煮立ってきたら、特製のショッツルで味つけする。毎日、飽きることなく食べた。

 野生鳥獣料理にしても、川魚料理にしても、秋田は何でも「貝焼き」にしてしまう。秋田ほど「貝焼き」を愛する所はないのではないか。
 写真:メスのハタハタの素焼き。ブリコ(卵)が腹から破れて出るほど大きく、体の半分ほどを占める。このデカクて粘るブリコが旬の味。淡白な魚だけに一度に5〜6匹は簡単に食べられる。これをショッツル鍋にしたら、その倍は食べられ、毎日食べても飽きない摩訶不思議な魚でもある。私にとっては、さしずめ「かっぱえびせん」的魚で、食べたら止まらない。素焼きのハタハタは、砂糖と味噌で和えた甘味噌か醤油をつけて食べる。

▼ハタハタ漁最盛期の料理(男鹿)・・・ハタハタをショッツルで大鍋に煮たり、塩ふりして囲炉裏の炭火の周りに並べ、焼け次第、何十匹でも食べられるようにしておく。しかし、漁に「ミソ」をつけない縁起をかついで、ハタハタの味噌田楽だけは「切り上げ」の日だけ食べた。

▼味噌田楽・・・ハタハタを串刺しにして素焼きにし、表面が乾いた頃、サンショウ味噌を塗り、いくぶん焦げ目がつくくらいまで焼いて食べる。もう一つの味噌味焼きは、頭と腸をとり、味噌をからめて一晩おく。翌日、味噌を手でしごいて落とし、串に刺して焼く。簡単かつ美味。
▼ハタハタ寿司・・・木箱一つ分のハタハタに、酢4合、米一升、麹一升、塩4合くらいが標準。塩水で洗いヌメリをとる。頭、内臓、尾を切り取り、薄塩で3日間下漬けにする。これを水洗いし、酢に二日間ほど浸す。炊いたご飯と麹をよくかき混ぜ、冷ます。これに少量の塩と砂糖を加えてかき回し二日間ほどおく。酢に入れたハタハタを水洗いし、一匹を3〜4つにぶつ切りにする。

 ニンジンやカブを薄く花形や短冊に切る。樽に笹の葉を敷き、ハタハタを並べ、ご飯、野菜、ハタハタと交互に重ねて漬け込む。笹の葉を上蓋の下に敷き、材料と同じくらいの重さの重石を載せ、漬け汁が上がってきたら、重石を半分にして保存する。約1ヶ月ほどで食べられる。ハタハタの飯寿司は、骨まで食べられる。こうした手間を惜しまず、丹精込めて作ったハタハタ寿司は、どこの家でも正月から冬の間中食べた。これをイワナにも応用したら、きっと美味いに違いない。

▼ハタハタの保存法・・・塩漬け、麹漬け、押しブリコ、白子塩辛、ショッツル、ハタハタ寿司、干し魚など、保存法も多様で、冬の間中食べた。ハタハタは、厳しい冬の到来とともに、大群となって押し寄せてきただけに、雪国秋田にとっては、これ以上ないご馳走であり、「冬魚の王様」だった。ただし、雪に埋もれ、陸の孤島と化してしまう奥地では、このハタハタの恩恵を受けられず、イワナが「冬魚の王様」だった。
狩猟民の感覚・共生共死の思想をもっていた詩人・宮沢賢治
 宮沢賢治と言えば、誰しも「雨ニモマケズ」の詩を思い出すだろう。

 「雨にも負けず/風にも負けず
 雪にも夏の暑さにも 負けぬ 丈夫な体をもち
 慾はなく/決して嗔らず/いつも静かに笑っている
 ・・・
 一人のときは涙を流し/寒さの夏はオロオロ歩き
 みんなにデクノボーと呼ばれ
 ほめられもせず 苦にもされず そういうものに 私はなりたい」

 この詩を読めば読むほど・・・「秋田・食の民俗」を探れば、探るほど・・・飢餓と貧困に喘いだ雪国の民俗の厳しい現実が目に浮かぶようで、心にグサリと刺さるような共感を覚える。以下に紹介する賢治の短編二作は、この詩と同じく日本人の奥底に潜む謎を見事に言い当てているように思う。(写真:写真集「米づくりの村」(井上一郎著)より)
「宮沢賢治」の作品1・・・「注文の多い料理店」
 二人の若い紳士が、ピカピカの鉄砲を担いで狩りに出た。獲物一匹獲れず、山奥に入って道に迷ってしまう。そのうち腹が空いて横っ腹が痛くなる。すると、ザワザワするススキの中に「西洋料理店」と書いた一軒家を見つけた。

 扉には「当軒は注文の多い料理店ですからどうかそこはご承知ください」と書いてある。
 扉を開けると「お客さまがた、ここで髪をきちんとして、それからはきものの泥を落としてください」。次の扉には「鉄砲と弾丸をここへ置いてください」。さらに次の扉には「ネクタイピン、カフスボタン、メガネ、財布、その他金物類、ことに尖ったものは、みなここに置いてください」

 また扉があって「壷の中のクリームを顔や手足にすっかり塗ってください」・・・
 「料理はもうすぐできます。・・・早くあなたの頭に瓶の中の香水を振りかけてください」
 そして扉の裏側にはこう書いてあった。
 「いろいろ注文が多くうるさかったでしょう。・・・どうかからだ中に、壷の中の塩をたくさん、よくもみ込んでください」

 今度という今度は、二人ともおかしいことに気づきます。
 「だからさ、西洋料理店というのは、ぼくの考えるところでは、西洋料理を、来た人に食べさせるのではなく、来た人を西洋料理にして、食べてやる家とこういうことなんだ。これは、その、つ、つ、つ、つまり、ぼ、ぼ、ぼくらが・・・」

 この物語は、猟師が獣をとる話ではなく、猟師が逆に獣に食べられるという逆転のストーリーになっている。つまり「食物連鎖の環」から脱出したはずの二人の紳士は、見事に「食物連鎖の環の中」に組み入れられてしまう。これを鉄砲ではなく釣竿に置き換えたならば、この童話と同じような夢を見かねない・・・と思うほどリアルに感じてしまう不思議な作品だ。
「宮沢賢治」の作品2・・・「なめとこ山の熊」
 もう一つは「マタギ 森と狩人の記録」で田口先生が引用している物語「なめとこ山の熊」だが、これは「食物連鎖の中に生きる」狩猟民の感覚が生き生きと描かれている。

 クマ狩り名人・小十郎は、クマを獲ると、こう呟く。
 「熊。おれはてまへを憎くて殺したのでねえんだぞ。おれも商売ならてめえへも射たなけぁならねえ。ほかの罪のねえ仕事をしていたんだが畑はなし木はお上のものにきまったし里へ出ても誰も相手にしねえ。仕方なしに猟師なんぞをしるんだ。てめえも熊に生まれたが因果だ。やい、この次は熊なんぞにうまれなよ」

 しかしラストシーンは、小十郎も大きなクマに殺されてしまう。狩りの対象だったクマに、逆に狩られしまう。クマたちは、死んだ小十郎を取り囲み、マタギたちが行うクマ送りの儀式で小十郎の魂を山の神へと送る。そしてクマたちは、こう呟いたに違いない。
 「小十郎。おれはてまへを憎くて殺したのでねえんだぞ。・・・てめえも猟師に生まれたが因果だ。やい、この次は猟師なんぞにうまれなよ」

 この物語は、長年殺生を重ねてきた古老のマタギたちが決まって言う言葉と重なるものがある。
 「狩りになれば皆獣になって雪ん中歩いたんだわ」
 「俺もそろそろ山の獣の餌になってもいいころだすな」

 これは「輪廻転生」(共生共死)の思想・・・人間は猿に生まれ変わる、熊に生まれ変わる、イワナに生まれ変わる・・・野生動物だけでなく、植物にも生まれ変わる。人間と自然が対等の関係で、生と死が永遠に循環するという思想・哲学こそ、持続的な生き方を夢見てやまない日本人の心の原点があるように思う。

 それは雪深い山峡の生業・農民鷹匠で知られた羽後町上仙道桧山集落の「熊鷹文学碑」(藤原審爾)に刻まれた一文に凝縮されている。



・・・食の民俗シリーズ4部作 「完」・・・2003年12月末日
参 考 文 献
「秋田たべもの民俗誌」(太田雄治著、秋田魁新報社)
「阿仁川流域の郷土料理」(建設省東北地方建設局森吉山ダム工事事務所)
「秋田民俗覚書」(長山幹丸著、北方風土社)
日本の食生活全集5「聞き書 秋田の食事」(農文協)
「いなかの食卓 秋田だより」(相場栄著、文化出版局)
「淡水魚カタログ」(森文俊、秋山信彦、永岡書店)
「淡水魚あきた読本」(杉山秀樹著、無明舎出版)
「クニマス百科」(杉山秀樹著、秋田魁新報社)
「釣りキチ三平平成版VOL.1」(矢口高雄、講談社)
写真集「潟の記憶」(川辺信康著、秋田魁新報社)
「山村の八十年 マタギの里」(越前谷武左衛門著)
「秋田郡邑魚譚」(昭和15年、武藤鉄城著)
「注文の多い料理店」(宮沢賢治、新潮社文庫)
「マタギ 消えゆく山人の記録」(太田雄治著、慶友社)
「マタギ 森と狩人の記録」(田口 洋美著、慶友社)
「NHKカルチャーアワー 日本の心、日本人の心・上」(山折哲雄著、NHK出版)
「ちくま日本文学全集 柳田國男」(筑摩書房)

食の民俗1 食の民俗2 食の民俗3 食の民俗4 山釣り紀行TOP

SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送