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 ウズラ石沢・清冽源流を撮る
 夕方6時過ぎ、薄暗くなってきた瞬間を狙って1/2〜2秒程度のスローシャッターで撮影してみた。小型三脚では、狙った位置に三脚を構えることができず、渓に点在する大岩や倒木に乗せて写した。手前の岩には苔、右手の大岩の上は一つの森を形成している。その間を清冽な流れが走る。夏でも身を切るように冷たく、底まで透き通るような透明度が堪らない。
 苔生す小沢の流れ・・・苔と清冽な流れには、カメラのレンズを無意識に向けてしまう。不思議な魔力を秘めた風景だ。
 点在する岩という岩全てに森が形成されている。太古の渓を感じさせるに十分な光景だ。
 小沢が本流に落ち込む瞬間を上から俯瞰する。
 ゴーロ滝の滝頭から・・・
 滝上から滝壺を撮る。
 点在する大岩に阻まれ、右に左に屈曲しながら飛沫を上げて流れ下る。
4日目 ウズラ石沢からサカサ沢へ
 昨晩は、雨が降っていたが、朝になるとブナの森に夏の陽射しが射し込み、小鳥たちが賑やかにさえずりはじめた。今日は移動日だが、好天に恵まれて山の神に感謝。

 コーヒーを飲みながら、白神の真っ只中にいる幸せをかみしめる。美和ちゃんは「こごに住みつきたくなったなぁ」と呟く。二晩お世話になったウズラ石沢のテン場を綺麗に片付ける。
 夏の好天に恵まれると、渓流ウォーキングも殊の外楽しい。
 巨岩が横たわる滝の右岸側を巻いて下る。
 ちょっとヘツリが難しい場所は、高台を高巻く。
 高台を高巻くと、渓歩きでは見えない森が出現。こうなりゃ、白神の森と記念撮影だ。
 本流のヘツリ。源流一年生の美和ちゃんも、大分渓歩きに慣れてきたようだ。初日はどうなることかと心配したが、かなりスピーディに歩けるようになった。それは驚くほどの進歩だ。やっぱり「好きこそ物の上手なれ」
 木漏れ日を全身に浴びながら、清冽なシャワーを歩く気分は最高。流れの飛沫が放つマイナスイオンは、体のあらゆる細胞を包む主成分で、人体にすこぶるいいらしい。さらに世界最大級のブナ林が放つフィトンチットを浴びてあるくのだから気分がいいのも当たり前。「このまま死んでもいいわ」と何やら意味深な言葉を連発する美和ちゃん。「いやいや、死んでもいいなんてとんでもない。生きるエネルギーをもらいにきてるんだから」と真顔でたしなめる私。
 底まで透き通る流れから何匹ものイワナたちが走る。こうした光景を見ていると渓は生きている実感を抱く。
 マス止めの滝から上流。どこまでも穏やかな流れが続いている。
 二又下流のテン場でのんびり昼食。
 サカサ沢を遡行していると、突然ヤマセミが飛び交い、低空飛行のカワガラスが物凄いスピードで下流へ飛んでいった。ここまでは渓流でよく見かける定番の野鳥だ。さらに驚かされる場面に遭遇・・・。
白神で繁殖が確認されたシノリガモ
 シノリガモだ。親子連れ6羽が、穏やかに流れるサカサ沢の流れでのんびり遊んでいた。近づいても逃げる気配をみせなかった。お陰で何とか撮影に成功した。この鳥と出会えただけでも、今回の白神山地に来たかいがあったと思う。

 というのも昭和61年に初めて追良瀬川を遡行している時、シノリガモを見たことがあったが、水辺でカモが遊んでいる姿は、当たり前の光景であり、それほど貴重なものだとは全く知る由もなかった。
 シノリガモは冬鳥として、北日本に多く飛来する。一般に10月から4月、波の荒い海岸に群れで生活している。しかし、このシノリガモは追良瀬川源流で、しかも一般には考えられない8月に親子連れで生活している。1976年、白神山地赤石川上流で6羽の雛を連れたメスが発見され、国内で初めて繁殖が確認された貴重な鳥である。その後、岩手県、宮城県でも繁殖が記録された。

 繁殖地では、追良瀬川のような山間の渓流に棲み、水生昆虫を捕食したり、藻類を岩からこそぎとって食べている。シノリガモの食性を考えると、追良瀬川はピッタリの川だと思う。
 上流に向かって泳いでいたシノリガモは、突然下流に下り出した。・・・すると上流から下ってきたパーティに出くわす。下ってきた人影に驚き、下流に下り始めたようだ。パーティは東大OBの5名のパーティだった。赤石堰堤から入渓し、滝川支流西の沢出合いに一泊、今晩はツツミ沢が合流する二又に泊まり、白神岳へ向かうという。これまた2泊3日のハードスケジュール。我々みたいな亀軍団は、なかなかいないようだ。
 シノリガモが見えなくなるまで追い掛けた。何とも優雅な沢下りだ。人間もカモになれたら、どんなに楽だろう、などと思ってしまう。全体に灰黒褐色の雌は、顔に3つの白斑がある。雄は、紫黒色に絵筆で描いたような白い線や丸斑がある。
 ちなみに鳴き声は「チュッチュッチュッ フィー」と鳴く。
サカサ沢テン場周辺の巨樹
 サカサ沢 ブナの巨樹
 
 白神山地のブナは、約200年から300年ほど生きると、枯れて倒れるという。その限界近いブナが上の巨樹だ。幹の白い肌が見えないほど分厚い苔に覆われ、その間から緑の植物たちがたくさん生えている。思わず拝みたくなるような迫力があった。 
 同上のブナのアップ

 樹木信仰で知られるドルイド教の神木は、ナラ。私にとっての神木は、やっぱりブナだ。なぜならブナのあるところに清流があり、イワナが群れ遊んでいるからである。日本の修験道は、樹木、巨岩、水の流れなど、あらゆる自然物に生命を感じ、それらと人間が呼応するところに生まれたのだが、白神山地のような原生的な世界に分け入ると、自然崇拝的な気持ちが素直に沸いてくるから不思議だ。 
 日本人の自然観のルーツをたどれば、おそらくアニミズムに到達するだろう。つまり、全ての自然物に霊魂が宿り、さまざまな現象はその働きによると信じること。一方一神教の場合は、発想が全く逆で、あらゆる自然物は神が創り出したものと考える。従って自然保護を考える場合、日本人と欧米人では全く逆の発想をすることが容易に推定できる。

 「修験道は、人間と自然との呼応の中から生まれた宗教だ。人間は樹木のある自然の中で生かされているのだという。このことを認識に置く宗教が修験道だと言える」・・・こう聞かされると、私も知らず知らずのうちに修験道と同じ考え方をしていることに気付かされる。
 苔生した老木の反対側を見ると、縦に大きなヒビが入っていた。恐らく、寿命尽きる寸前のひび割れ現象だろう。よく見ると、ちょっと古いが熊の爪跡がついている。春に冬眠から覚めた熊が、ブナの若芽を食べるために登った爪跡だろう。
 こうした森の主に出会うには、ただ沢沿いに歩いたのではなかなか見つからない。白神山地なら、検討をつけた平坦あるいは緩い斜面めがけてチシマザサを掻き分け進むと、意外に簡単に見つけられる。
5日目 サカサ沢〜真瀬川中の又沢
 最終日は、サカサ沢源流を詰め車止めに向かう。5日間は、ちょっと長いかなと思ったが終わってみれば、あっと言う間だった。
 イワナが、この下に見えたのだが、カメラを構えると、どうも隠れてしまって一枚も写っていなかった。明るい望遠レンズあるいは手ブレ防止機能のついた高倍率レンズの必要性を痛感した。
 渓に倒れこんでいたブナの倒木。全山黄葉する頃になると、こうした倒木にナメコやムキタケ、ブナハリタケなどのキノコが生えることだろう。
 見渡す限り一面アカミズが群生していた。サカサ沢源流は、ミズの群生規模が大きく、見飽きるほど生えている。
 5日間白神の谷を彷徨い、寝食を共にすると、仲間の絆も一層深まった。源流初心者の美和ちゃんは、よく最後まで歩き抜いたと思う。きっと今回の体験は、感動とともに大きな自信になったことだろう。
 県境コル付近のブナ越しに白神岳稜線を望む。薄く霞む白い神々に向かって「またしても筋書きのないドラマ、感動をありがとうございました」と感謝の意を表した。
白神山地世界遺産地域への入山関連HP
東北森林管理局 青森分局
白神山地入山指定ルート位置図
核心地域への入山、許可制から届出制へ
白神山地への提言 白神市民文化フォーラム

世界自然遺産 暮らしとの調和も大切に
 先日朝日新聞「私の視点」に知床ナチュラリスト協会代表理事 藤崎達也さんの投稿記事が掲載された。私たちが、なぜ白神山地の管理計画見直しを主張しているのか。その意味が理解できる内容であり、ここに要約して記す。

 北海道・知床が、小笠原諸島、琉球諸島とともに、世界自然遺産の最終推薦候補地になった。・・・私は、さまざまなメディアからコメントを求められた。喜びの声を期待されているようだったが、現実はそれほど単純ではない。世界遺産というブランドの陰で、置き去りにされている議論があるのだ。

 先日、白神山地の青森県鯵ヶ沢町で、マタギとして生きてきた吉川隆さんとお会いした。「マタギ」とは単なる「クマ射ち」の呼称ではなく、自然の神々との交感を大切にしながら生きる「生活様式」であり、「哲学」であり、場合によっては「信仰」である。

 ・・・世界遺産登録後に示された管理計画は「山に入るときは犬を連れていくな。山菜はとるな。・・・」と、むしろマタギの生活文化を完全に否定するものだった。「以前は世界遺産を救世主のように思ったが、今は逆かもしれない」というのが、吉川さんが私に語った真情だった。

 ・・・現実には「世界のために地元の人は我慢しろ」と言わんばかりに、地域の生態環境には全くそぐわない論理を持ち込む人が少なからず見受けられる。東北地方でいえば、マタギから学ぶべきことは数知れない。それなのに、そうした人々の文化を否定する「遺産」とは、いったい何なのだろうか。

 ・・・人と自然とのかかわりは、地域の数だけ多様である。それぞれの地域には、隣接する自然と密接した文化が育まれている。その地域文化が消えるとき、それは人と自然の関係が、ひとつ永久に葬り去られることを意味する。知床にはマタギのような生活文化こそないが、冬には流氷に埋め尽くされる海と深い森とが生み出してきた、知床独自の生活や経済が存在する。どこかの国の管理手法をそのまま模倣し、地域の生活や経済を否定するようなことがあってはならない。

 ・・・人間が無理なく自然と付き合っていける社会が本当の意味での共存だ。知床が世界自然遺産に加わる日はには「知床の人間はこのように自然とかかわっている」と、自信を持って発信できるようにしたいと考えている。

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