歴史のロマンを探る山旅@ A B C

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A
照り付ける夏の日差しは暑く、下界での汗は全て体外へ排出された。野営の準備が終わり次第、栃川に涼を求めて入った。清冽な流れに心の中まで涼しくなる思いだった。
圧縮されたトヨ状の流れが滝壷に吸い込まれていく。 ツナギ沢出合いの7mナメ滝を越えると、小滝が続いている。
流れは細流だが、岩魚は確かに生息していた。右の写真は、F2・3m滝。
F3・10m滝で岩魚を釣り上げた瞬間だ。右の岩魚は、この滝壷で釣り上げた31cmの尺岩魚。暗い滝壷に潜んでいるせいか、全身真っ黒にサビついているような魚体が印象的だった。
小出川が増水した時は、相当難儀をして川を横断した。この左岸の穏やかな台地には、かつて「お助け小屋」があり、鍋1個が備えられていたという。かつて、この街道を行き交った人々は、焚き火を囲み、岩魚や山菜、きのこを採り、山の恵みを有難くいただいたに違いない。
ここより急な坂を登り、尾根を一里ほど行くと平らになった場所に秋田と岩手の荷物の交換を行った中山小屋があった。この小屋は別名「お助け小屋」とも呼ばれ、旅人の宿泊所としても利用されたと記録されている。
手倉御番所復元図。慶長7年(1602)、佐竹転封後間もなく手倉に番所が設置された。昼間は門を開き、夜間はこれを閉じ、旅人の出入りを取り締まった。岩手側の下嵐江にも番所があった。仙北街道は、毎年義足人足を出して、雑草や道の邪魔になる柴や笹を刈り払ったので通行の時は笠を被り、荷物を背負って十分通れる道であった。それにしても、重い荷を背負い、難所があっても、積雪があっても峠を越えた背負子たちの力には驚かざるを得ない。昔の人は健脚で忍耐強かった。 仙北街道の山道にある弘法の祠。大きな石に60cmぐらいのワラジの跡がついている。弘法の足跡であると言い伝えられ、今も弘法の祠の祭りを続けている。当時の山道の幅は九尺(2.7m)もあったという。仙台領からは、主に三陸海岸、北上川からとれた魚類、日用品、秋田領からは、米と酒、川連漆器、菅笠が代表だった。大飢饉の場合は、仙台領から食を求めて山越えするものが多く、家族ぐるみで数ヶ月にわたって食い働きするものもあったという。

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