山釣り紀行TOP


山伏修験道とマタギ、羽黒山、六十里越街道、マタギサミット、空気神社、佐竹家住宅、棚田百選「椹平」
▲棚田百選「椹平(くぬぎだいら)」(山形県朝日町)

 2010年7月3日(土)〜4日(日)、第21回ブナ林と狩人の会:マタギサミットin朝日町が、山形県朝日町で開催された。私は、今年で連続11回目の参加となる。この会の素晴らしい所は、狩猟文化研究の最新情報や交流会もさることながら、開催地周辺の民俗文化を訪ねることができる点にある。

 今回の旅のテーマは「山伏修験道とマタギ」である。常々思っていたことは、山伏とマタギのフィールドは、不思議なほど重なっている。山伏が「聖」なら、マタギは「俗」・・・一見正反対のように見えるが、「山是神」という点で一致している。「表」と「裏」、「生」と「死」、「聖」と「俗」・・・全て表裏一体の関係にある。「出羽三山」を歩き、そんな山伏修験道とマタギの不思議な関係を追ってみた。
山伏修験道とマタギ
 祓川を渡り、羽黒山の山頂をめざして、真っ直ぐ伸びた杉並木の参道を歩く。国宝・五重塔を過ぎると、無人の世界となった。上り坂が急になると、汗が噴出してきた。それにしても両サイドの杉並木の巨樹一本、一本が見事で、眺めているだけで神が宿っているように見える。「文化的景観」とは、こういう景観を言うのであろう。
▲湯殿山参籠所から月山を望む(流雲に隠れて見えなかった、残念!)

 「標高1980m。鳥海山のそれには僅かに及ばないが、東北有数の高山で、豊沃な庄内平野を生みなす河川は、ほとんどこの月山から出ているといっても過言ではありません。・・・してみれば、庄内平野がこの世の栄をみることができるのも、まさに死者の行くあの世の山、月山の恵みによると言わねばならない。このようにして、出羽三山、ことに湯殿への信仰はひとり庄内平野にとどまらず、あまねくこの国に行き渡ったと言えます」(森敦「月山」)

 「山は神が宿る神域」であるとする信仰は、日本人の自然観のベースになっている。平安時代、その山の神域で修行し、祈祷などにおいて効験を現す行者、すなわち「修験道」へと発展していく。東北では、出羽三山、鳥海山、太平山、早池峰山などが修験の山の代表格であった。
▲出羽三山(月山、羽黒山、湯殿山)の流れをくむ羽後町元城獅子舞

 修験者は、諸国の霊山を巡って修行し、験力を試すという山伏スタイルが出来上がっていった。江戸時代になると、移動が制限された結果、村里に定着し、加持祈祷をする「里山伏」へとかわっていった。農山村では、農業をしながら、無病息災や雨乞いなどの宗教活動とともに、山伏神楽とも呼ばれる番楽や獅子舞などの民俗芸能を霊山周辺の村々に伝授していった。
出羽三山の里山伏を描いた小説「春秋山伏記」(藤沢周平)
 「おんぎょう(行者)では無(ね)」
 と、大男は重おもしく
 おとしの言葉を訂正した。
 「おれは羽黒がらきた山伏だ」

 この小説を読めば、里山伏は、神の使いというより、不幸な俗人を全て救う、最も人間くさい存在であることが分かる。山伏は、実は薬草に詳しい医者であり、夫婦喧嘩の仲裁から心の病まで治す・・・不可解な災厄や不幸、争いごとが絶えない村の精神的な支えとなってスーパーマンのごとく大活躍したのが里山伏である。だからこそ、山伏神楽は、今日でも大切に伝承されている所以だと思う。
▲マタギのふるさと根子番楽「鞍馬」 ▲早池峰大償神楽「鞍馬」

 「マタギのふるさと」阿仁根子集落に伝わる根子番楽(国重要無形民俗文化財)は、山伏神楽の流れをくみ、勇壮活発で荒っぽい武士舞いが多いのが特徴である。番楽をやる人は、同時にマタギもやっていた。つまり、マタギと番楽は切っても切れない関係にあった。

 早池峰大償神楽は、北上山地の主峰・早池峰山の山麓に住む山伏によって語り演じられてきた山伏神楽である。その演目「鞍馬」は、唐の天狗の首領「是界房(ぜかいぼう)」が、鞍馬山で修行中の牛若丸を尋ね試合を挑む。しかし、是界房はものの見事に負けるというストーリー。根子番楽の「鞍馬」とは、ストーリーこそ違っているものの、演目の「鞍馬」という名称と山伏神楽系の民俗芸能という点では同じである。
▲いでは文化記念館(山形県鶴岡市)

 マタギの精神的支柱になっていた巻物は、日光派の「山達根本之巻」と高野派の「山達由来之事」がある。日光派は天台宗、高野派は真言宗を代表し、山伏修験道との深い関係を物語っている。

マタギの巻物と山伏・・・宮本常一「狩人」より抜粋

 狩人には「山立根元記」という巻物を持っている者がいた。狩人の中でも、首領をつとめる家の者に多い。山立は山伏に対する言葉であろう。「山立根元記」はそうした狩人たちがどうしておこったかを書いたものである・・・

 上野・下野の山中と高野・吉野の山中にもとは狩人が多かったと見られ、それが次第に各地へ四散していたったものであろう。・・・日光といい高野といい、ともに古い山岳信仰の聖地であり、日光は天台、高野は真言の道場であった。狩人たちは・・・殺生の罪障を神仏の加護によって祓おうとし、・・・そのような伝承を持つことによって精神的な支えとし、一般農民とは違った独自な生活を維持することができた。
▲国宝羽黒山五重塔

山伏の影響・・・宮本常一「山の信仰」より抜粋

 狩人たちは早くから山の信仰に結びつき、山の信仰の伝播者であるとともに、山の信仰の中へ仏教をもとりいれた仲間であったといってみたかったのである・・・聖と狩人の出会いが、狩人たちに殺生に対する罪意識を植え付けていったことも多かったであろう・・・つまり狩人の世界ほど仏法は入りやすい余地を持っていたのである。

 こうした山中の聖の中から山伏が出てくる。その山伏に対して狩人のことを山立といった。山立とは山賊のことをさしているが、山立のとなえる呪文には経典から出たものが多く、山立の信仰には山伏と山中聖の信仰の強い影響が見られるのである
▲羽黒修験の開祖・蜂子皇子を祀る蜂子社(羽黒山山頂)

山の神は醜い
 羽黒修験の開祖と言われる蜂子皇子は、実在の人物ではないらしい。その肖像画を見れば、まるで「狼」のような恐ろしい形相をしている。口が横に大きく裂けている。目は飛び出したように大きく、ハチの目のようであったから、蜂子(はちこ)と言われたのだという。それが山の神の化身として崇拝の対象になっている。

 マタギが信仰する山神様は、とても醜い女の神様で、大のやきもちやき。オコゼを見せると「自分より醜いものがある」と、たいそう喜ぶらしい。山の神は「醜い」・・・という点では、修験もマタギの世界も同じである。
▲羽黒山の起点「随神門」 ▲天拝石・・・昔修験者が行法を行った場所の石
▲祓川に架かる神橋
▲羽黒山のスギ ▲須賀の滝

 滝や川は、他界への入り口で神々が出入りする場所と言われている。かつては、祓川の清き流れに身を沈め、水垢離をとってから三山に向かったという。沢登りは、シャワークライミングを喜ぶが、それは清冽な水で穢れを祓う効用のせいかもしれない。

神の使い「三足カラス」
 三本足のカラスは、熊野修験のシンボルで、神の使いとされている。羽黒修験の開祖・蜂子皇子は、三足カラスに導かれて羽黒に入った。また、羽黒山の名は、そのカラスの羽が黒いことに由来する。日本サッカー協会のシンボルが「三足カラス」というのも興味深い。
 
 現代では、嫌われ者の代表格であるカラスが、なぜ神の使いなのだろうか。

 昔は、人が死ぬと水葬、風葬をしていた。カラスは人が死ぬのを待っている鳥で、風葬の清掃者とも言われている。また、死者の霊は山に上ると言われる。つまり、死の世界の象徴的な鳥がカラスで、中でも三本足の特殊なカラスをシンボル化したものと考えれば、何となく分かるような気がする。
▲天然記念物「爺杉」・・・周囲10m、樹齢千年 ▲国宝「五重塔」

狩人が修験の山を開く
 熊野修験道の発祥には・・・熊野部千与定という狩人が猪を追い、その猪が倒れた所がイチイの木の根元であった。彼は猪の肉を食べながら、木の下で一晩泊まる。そこで三枚の月形が見つかり、不思議に思って尋ねると、「われは熊野三所権現なり」と言ったという。

(注釈)権現とは、神仏が仮の姿としてこの世に現れることを言う。山伏神楽では、獅子頭に神仏が遷っていると考える。権現舞は、あらゆる災いを祓い、人々の安泰を祈願する欠かすことのできない演目になっている。
▲一の坂 ▲二の坂終点にある「二の坂茶屋」

山の神、狩人、修験道・・・「山の宗教 修験道案内」(五来重著、角川ソフィア文庫)より抜粋
 狩人がこのように山を開くということは、山中生活の人々が山の神を祀っておったからです。その祀りが麓の人々によって信仰されたときに、この山の開山は狩人であったということになるわけです。

 ・・・修験の山というのは三神三容といい、俗人の形と、女性の形と、坊さんの形の三つでできています。山の神さんは女性ですから女体になり、それを祀る狩人は俗体になり、こんどはそれを仏教で祀るようになって修験道が始まると、頭を剃った坊さんが加わる。

 ・・・山の神と、それを祀る神主さんと、それを修験道として開いた坊さん、それが全部神格化されて神になるので、峰が三つある。これを三山に分けるわけです。
▲羽黒山参道の杉並木(国の天然記念物)
 参道の延長は1.5km、石段は2446段、標高差は約300m、その両脇に樹齢300〜600年の老杉が586本立ち並ぶ。一の坂、二の坂、三の坂と上るにつれて巨樹の幹は太くなる。その圧倒的な存在感、上るたびに神に近付いていくような錯覚に陥る・・・一体、誰が植林したのだろうか。

 三の坂付近の老樹は、室町〜安土桃山時代に植林したらしい。しかし、現在の巨樹の多くは、羽黒山五十世別当となった天宥(てんゆう)の事業によるという。天宥は、真言から天台に改め、三山の統一を目指して、1648年、杉の植林と参道に切石を敷く整備に着手した・・・三山統一はかなわなかったが、その杉苗は、現在、仏や神の化身のような巨木となって聳えたっている。
▲ヤマアジサイ ▲芭蕉塚 「涼しさや ほの三日月の羽黒山」

日光修験と猿丸太夫・・・ 「山の宗教 修験道案内」(五来重著、角川ソフィア文庫)の要約
 日光の神と赤城の神が沼を巡って争いとなる。その時、日光の神を助けたのが狩人の先祖「猿丸太夫」である。狩人は、皆山の神に仕え、その山の神を祀る司祭者でもある。そこへ高徳の山伏が登ってきた。そこで狩人は、高徳の山伏に譲る。そして狩人とその子孫は山のガードマンとなる。(マタギの伝説では「猿丸太夫」が「万事万三郎」という名前で語られている)
▲三の坂
 最後の上り「三の坂」のきつい上りになると、杉の大木から後光のような光が射し込む。もし、雨上がりであったら、杉並木に霧が流れ、さぞ神秘的な光景になるだろう。この人智を超えた美景を眺めながら上ると、誰しも山の神を見たような思いがするだろう。

高野山と狩人・・・「山の宗教 修験道案内」(五来重著、角川ソフィア文庫)より抜粋
 狩人がニウツヒメという、山の神様を祀っておった。その狩人が弘法大師に高野山全体を譲ります。そして、その狩人の子孫は行人というもので山伏になった。ですから行人たちは狩場明神を一生懸命お祀りして、いまだ高野山では「行人寺」は、その祀りをたやさない。と同時に、弘法大師に土地をさしあげた狩人が一番先祖と考えられて「高野明神」といわれた。
▲日本最大の萱葺き建物「羽黒山三神合祭殿」
 羽黒山(414m)の山頂には、出羽三山(月山、羽黒山、湯殿山)の神を祀る豪壮な萱葺き神社がある。月山と湯殿山は、冬の参拝が不可能なため、ここに合祭されているという。
▲注連寺 ▲森敦文庫

 現在、六十里越街道の起点にもなっている注連寺。森敦が、この寺に滞在して、芥川賞受賞の小説「月山」を書いた場所として有名。境内の石碑には・・・

「月山
 すべての吹きの
 寄すところ
 これ月山なり/森敦」と刻まれていた。

 吹雪の「吹き」は、庄内平野に降る雪が十王峠を越えて、みんな大網の谷に集まって降る。月山があるからである。朝早く訪れると、大勢のトレッキング者たちが集まっていた。
▲田麦俣の多層民家 ▲六十里越街道「蟻腰坂」

 六十里越街道は、注連寺から大網大日坊を経て田麦俣で一泊、二日目に蟻腰坂から最終地点の湯殿山参籠所まで歩く古道の旅コース。千年以上も前に開かれたと言われ、特に江戸時代には出羽三山参拝で賑わったという。ぜひ一度歩いて見たい古道だ。
▲大網集落・大日坊「仁王門」
 注連寺や大日坊には、「弘法大師・開山即身仏」というミイラが安置されている。

なぜ湯殿山周辺にミイラが多いのだろうか・・・「山の宗教」より要約・・・
 もともと出羽三山は、真言宗に属していた。しかし、1630年前後、天宥は政治権力を利用して、熊野から離れ天台宗に帰入させた。その時、湯殿だけが反対し、真言宗のまま残った。ところが逆らったために登山者が激減してしまった。真言宗として残り、羽黒よりも優れていることをアピールするには、弘法大師と同じように入定すること、つまりミイラを見せることであったという。
▲湯殿山参籠所

湯殿山とミイラ・・・「山の宗教」より要約・・・
 湯殿山は、山の信仰というより「仙人沢」という険しい沢の信仰にある。ミイラになると宣言した一世行人には、たくさんの信者が集まる。しかし、宣言した以上は死ななければならない。仙人沢で五穀を断ち、断水して自らの意思によって死んでいった。ミイラになることは、一つの奇跡で、ある程度人工もあるだろうと考えている。

小説「月山」のミイラ秘話
 小説には、一世行人ではなく、行き倒れのやっこをミイラにした秘話が記されている。
「・・・吹きの中の行き倒れだば、ツボケの大根みてえに生でいるもんださけの。肛門から前のものさかけて、グイと刃物でえぐって、こげだ(と、その太さを示すように輸をつくりながら、両手を拡げ)鉄鉤を突っ込んでのう。中のわた(腸)抜いて、燻すというもんだけ。・・・」

 「・・・山の小屋からえれえ臭いがするもんだ。行ってみたば、仏の形に縛られたのが、宙吊りされて燻されとったもんだけ」・・・「おぼけ(びっくりし)て腰を抜かしたんども、まンず、仏は寺のなによりの商売道具ださけ」・・・

(注)注連寺のミイラは、当時噂されていた模造品ではなかったことが証明されている。
 右の「由来」の看板には・・・仙人沢は一世行人の修行の霊地であった。庄内地方にある即身仏六体は、皆仙人沢において五穀を断ち、十穀を断って厳しい修行を重ね、この身を捨てた尊い方々である。

 千日行あるいは二千日行、三千日行と重ね、挫折して途中で死んでしまう人もいた。その挫折した一世行人の碑は、仙人沢に林立しているという。
▲山伏の法衣と法具(いでは文化記念館)

山中修行の実用的な法具
八ツ目草鞋・・・わらじは沢を歩く時にも滑らず、水陸両用の優れた履物
大錫杖・・・杖になるだけでなく、蛇や毒虫の害を逃れるために音を鳴らして歩く
法螺貝・・・合図用で山中では4kmも届く。もちろんクマ避け、水を汲むにも有効。

かいの緒・・・体に回して左右に下げるヒモ。実用的には、ザイルで12mもある。
宝剣・・・山中では、柴打ち、小木を切るなどナタのような役割を果たす
脚絆・・・スネを保護するもの、いわゆるスパッツのようなもの

※山伏装束を眺めていると、このスタイルで沢登りや山釣りをやれば、さぞかし絵になるだろうと思う
第21回マタギサミットin朝日町
▲第21回「ブナ林と狩人の会」マタギサミットは、山形県朝日町エコ・ミュージアム大ホールで開催された。参加者は約150名。 ▲秋田仙北豊岡マタギ・・・右から鈴木隆夫シカリ、戸堀操世話役、北田長晃、小山岩作。秋田からは他に阿仁猟友会、県猟友会が参加。
クマは何を食べていたか?、体毛が語る食性履歴
中下留美子 森林総合研究所・NPO信州ツキノワグマ研究会
 生き物の体毛や筋肉、血液には、食べ物から得られた窒素や炭素が多く含まれている。それらの安定同位体比を測定すれば、動物が何を食べていたかを推定できる。

 ツキノワグマは植食性の雑食性。里に下りて、トウモロコシや残飯を食べるクマは、山の食べ物に比べて高い窒素、炭素同位体比をもつ。クマの体毛の炭素、窒素同位体比を測定すると、クマが何を食べていたか・・・その食性履歴まで分かるという。
▲養魚場で捕獲されたクマはニジマスを食べていた

 2005年6月15日、養魚場でオスのツキノワグマが捕獲された。体重105kg。体毛の測定結果は、非常に高い値を示し、明らかにニジマスを食べていたことが裏付けられた。履歴では、捕獲前年より捕獲年の方が養魚場のニジマスに依存する割合が高い。この個体は、完全にニジマスに餌付いていたことが分かる。
「山形で今、何が起きているか?」 山形大学理学部 玉手英利
 左の写真は、秋田さきがけの記事。2010年6月29日、秋田県の絶滅種に指定されているニホンジカ1頭が保護されたとのニュース。ここ数年、死亡個体の報告例や目撃例が寄せられているが、生息域を拡大している岩手県の個体が越境してきた可能性が指摘されている。シカは若いオスで、体長約1.5m、体重60kg余。

 山形県でもイノシシ、ニホンジカの生息が確認されているという。イノシシは、天童市で捕獲された実績もあり、生息域が北上していると推定されている。またニホンジカは、交通事故2件、目撃情報3件、その他2件、合わせて7件の報告がある。局所な個体数の増加や分布の拡大が生じているという。

北関東、福島、宮城で起こっていることは、いずれ山形でも起きる。
県を越えた広域的な情報交換が必要と呼び掛けた。
クマの住み家と食堂としての森林で起こっていること
山形県森林研究センター 齊籐正一
クマが里山に現れる要因の一つは、餌場となる広葉樹林の荒廃
山形県は、ブナの蓄積量は日本一
近年、ブナ帯ではウエツキブナハムシによる集団葉枯れ被害がある。
しかし、ブナを枯死させることはない(ひとまず安心)。 
ブナ−ミズナラ帯、コナラ帯では、ナラ類集団枯損被害が拡大。この被害はミズナラを中心にコナラも枯死させる。
現在、枯死被害が起こっている森林は、全県ナラ類の10〜20%程度。

ミズナラは、キノコの王様・マイタケが生える大事な広葉樹の一つ
枯死すれば、ナメコは生えるだろうが、マイタケは生えない
長野県秋山郷のマタギに聞くと、ミズナラの枯死被害は深刻で、マイタケはほとんど期待できなくなったという

秋田の南部でも、その被害は確認されている
ツキノワグマ〜マイタケ文化圏の秋田にとって、ナラ類集団枯損被害の北上は、
深刻な事態と受け止めるべきだと感じた。
パネルディスカッション 「何故、クマは里に下りるか」
北海道のヒグマ(北海道西興部村)
・ 平成元年頃は、里に下りるクマは少なかったが、今は多い
・ 山にクマのエサがない。牧場の草を食べる草食系になっている。昨年は、クローバーを食べていたクマを6頭も捕った。
・ クマにはテリトリーがあるので、捕っても別のクマが入ってくる
・ 有害駆除に対して、村から2万円の補助が出るが、経費的には赤字
・ エゾシカは撃てても、クマを撃てる人がいなくなった
・ だからクマもエゾシカ対策も大変だ

秋田県北秋田市
・ 昔は、クマが里に下りることはなかった
・ 春クマ狩りが制限されてからクマが倍以上に増えた
・ 残飯を捨てるのが一番悪い。残飯を捨てないでほしいと訴えた。
秋田県大仙市
・ 最近、里に下りるクマが多い。里に来ればエサが簡単に手に入ることを学習したためではないか
・ 雪消えが遅い年は、里に出没するケースが多い。

山形県鶴岡市
・ なぜ里にクマが下りるのか・・・多くなったから出る、当たり前のこと
・ クマは、芽吹きとともに移動する。たから、雪消えの遅い年は里近くにいるのは当たれ前のこと。
・ 昔は奥山にいかないと捕れないクマが、今では林道を4キロも走ればクマがいる。
・ 昔、20haほどブナを伐採し杉を植林した場所がある。今では、杉が育たず、30年ほどのブナ林が再生している。ここにクマが非常に多い。

長野県栄村
・ 二次林に手を加え、野生動物に対して緩衝帯を設けている。しかし、これは集落周辺のみで、その上に行けば荒れている。

田口洋美先生
・ 残飯がクマを里に誘引している
・ バッファーゾーンを作っていく運動が必要
・ 税収が減り、若い人たちが帰れない中で、森は攻めてくる。野生動物との共生は、若い人たちの生き方の選択にかかっている。
メインイベント「交流会」:ホテル自然観大広間
▲角田流八ツ沼獅子踊り
獅子は3匹で、子どもが舞うのが特徴
天文年間、八ツ沼城主が宮城県角田市より楽土を招聘して伝承したのが始まり
▲角田流八ツ沼獅子踊り ▲常州下御供佐々楽(能代市扇田)
 山伏修験が伝えた獅子踊りとは違い、「ささら系」の三匹獅子舞に似ている。常州下御供佐々楽(能代市扇田)のような三匹獅子舞は、腹に太鼓をつけて、両手に持ったバチで打ちながら舞う形式が多い。しかし、八ツ沼獅子踊りは、獅子ではなく、後ろの御前を乗せている人が太鼓をつけている。衣装も地域性があるなど、文化の多様性を感じる。
▲野外で飼っているダチョウ ▲ダチョウの刺身
▲何と高校生が、マタギ小屋の構造や位置などについて、質問してきた。それに笑顔で答える戸堀マタギ。こうした若者が、山の文化に興味を持つことは嬉しいことだ。 ▲真ん中は田口先生の若奥さん。お父さんは、渓流釣りが大好き・・・ということで、早速記念撮影。右端は、急遽割り込み、ノリノリのポーズをとる(有)アウトバックの藤村正樹さん。
アウトバックの藤村さんは、私が愛用している「熊撃退スプレー」と「三連の南部熊鈴」などを販売している
今回は、会場に商品の展示と野生動物被害防除機器等のカタログを置いていた
熊撃退スプレーは、かつて北海道のヒグマ対策として使用していた

しかし、最近は、ツキノワグマの痕跡がやたら多い
さらに、クマ避け鈴を鳴らしていたにもかかわらず、不意に遭遇し、親クマに吠えられたこともある
さらに、人を恐れないクマ、残飯に餌付いたクマも増えている

廃村、山仕事や狩人の激減など人間社会の変化、地球温暖化等自然の変化に野生動物は敏感に反応する
だから、山村が元気だった昔のクマ対策では不十分と言わざるを得ない
ツキノワグマとは言え、熊撃退スプレーを腰に下げないと、山と谷を歩けない時代になった
特に単独行の場合は必携である
7月4日、車座会議「これからのマタギサミット:マタギと文化財」

平成17年4月、文化財保護法の一部改正が施行された
棚田や里山など、生活、生業、地域の風土により形成された文化的景観を保護するために改正された
秋田県北秋田市の小松さんは、猟場も含めてマタギを文化財にできないか検討したいと語った
法をうまく活用して村を守る試み・・・ぜひチャレンジしていただきたいと思う

質問:小国町の斎藤重美さん
今年は、大物のクマが大物を倒して食べているの見た
クマが共食いをする例があれば教えてほしい

阿仁・・・クマは親分を決めるために戦う。共食いは多々ある。
三面では当たり前のように語っていた
シカやカモシカが増えたので、クマがそれを襲い食べるのは常識

過剰保護の結果、クマが肉食化している
クマが人を襲い食べる例も少なくない・・・過激化してきている懸念がある
狭いエリアに複数個体が集合すると、共食いも起こりやすくなるのでは

マタギ関連情報提供のお願い

 近い将来、東北のマタギ集落の生活写真を集成した写真集「マタギ」(仮称)を刊行したいとのこと。収集をすすめている映像資料は・・・昭和初期〜昭和40年代を中心とした、地域の生活や文化にかかわる写真。例えば、狩猟、猟犬、漁労、農耕、集落の景観、山林・田畑の景観、民家、講ごと、冠婚葬祭、祭り、結婚式など。

連絡先:東北芸術工科大学東北文化研究センター
電話023-627-2354 FAX023-627-2155
▲建立記念碑
▲空気神社参道 ▲水の神 ▲日本で唯一の空気神社

Asahi自然観の近くに空気神社がある
参道を歩いて行くと、木の神、火の神、土の神、金の神、水の神と続き、
ブナの二次林に囲まれた高台に空気神社がある

神社の本殿は床だけ・・・5m四方のステンレス製の鏡が敷かれている
床下には、地下室があり、中にはご神体の空気が入った12個の素焼き瓶が収められている
町の古老が言った
「火や水の神様はいるのに、なぜ空気の神様はいないんだろう」
その時は皆、不思議なことを言う人だなと思ったという
彼が亡くなった後、ようやく「空気」の大切さに気づき、有志で「ご神体は空気」という神社を作った
▲佐竹家住宅(国指定重要文化財)
1739年11月火災の直後に建てられた茅葺き民家
内陸部の上層農家(大庄屋)で、建築年代も明らかであり、貴重な民家
石の階段脇を流れる清冽な水、丸い石垣、茅葺き民家、よく管理された庭畑など
日本の原風景を思わせる、のどかな景観は素晴らしい

▲能中一本松公園から棚田百選「椹平(くぬぎだいら)」を望む

朝日町では、町全体を屋根のない生活環境博物館(エコミュージアム)として町づくりを進めている
そのエコミュージアムを代表する景観が、棚田百選「椹平(くぬぎだいら)」である
面積10.5ha、108枚の田んぼからなっている

この公園は、町の花「ヒメサユリ」の保存も行われている
初夏、水を満々と湛えた椹平棚田とヒメサユリのコラボレーションは、さぞ美しいことだろう
▲棚田百選「椹平(くぬぎだいら)」の看板
看板には「誰もが住んでみたい村に 農業農村整備」とある
農業農村整備(略称:NN)事業は、こうした条件不利地域の活性化対策として

中山間地域等直接支払い、ふるさと水と土基金、耕作放棄地の再生と水田のフル活用
グリーン・ツーリズム・都市と農村の交流促進などを行っています。
マタギサミット同様、農業農村整備事業にもご理解とご協力をお願いします。
参 考 文 献 
「山に生きる人びと」(宮本常一、未来社刊)
「山の宗教 修験道案内」(五来重著、角川ソフィア文庫)
「山伏入門」(監修 宮城泰年、淡交社)
「藤沢周平の世界28 春秋山伏記」(朝日新聞社)
「森敦全集第三巻(月山、鳥海山、浄土)」(筑摩書房)

山釣り紀行TOP

SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送