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ブンカDEゲンキ 番楽・獅子舞の競演、マタギと番楽と山釣りの文化・・・「山是神」
▲鳥海山日立舞(にかほ市横岡番楽)

 秋田は、番楽・獅子舞といった民俗文化の宝庫である。2010年2月20〜21日、「ブンカDEゲンキ 番楽・獅子舞の競演」が秋田市文化会館で開催された。その「神々の舞」の競演は、山を敬う精神文化が山麓に住む人々の共同の力で、今日まで連綿と受け継がれてきたことに共感と感動を覚える。また、同じ獅子舞でも、地域によって、その姿、形、舞が千差万別で、文化の多様性に富んでいることに驚かされた。

 しかし、少子高齢化時代を迎え、その村にしかない貴重な民俗文化が絶える集落も少なくない。「民俗文化の危機」を迎えていただけに、素晴らしい企画であった。改めて、秋田の元気を支えて続けてきた民俗文化の価値を見直すとともに、その持続的な継承につながることを強く期待したい。
▲神の山・鳥海山は、山伏ゆかりの霊山であった

 原始社会は、太陽や月、山、滝、湧水、巨岩・奇岩、巨木など、自然界のあらゆる事物に神が宿ると信じていた。また火山の噴火や地震、雷、洪水、旱魃、飢饉、疫病など人智を超えた自然現象を恐れ敬い自然を崇拝していた。

 中でも山は、古来より神が宿る山として今日まで崇め続けられてきた。人が亡くなると、その霊魂は村に近い山に上り、やがて祖霊となり、山の神になるとも考えられてきた。山は、神が宿る神域であるとする考え方は、日本人の自然観のベースとなっている。

 平安時代、その山の神域で修行し、祈祷などにおいて効験を現す行者、すなわち修験道へと発展していく。東北では、出羽三山、鳥海山、太平山、早池峰山などが修験の山の代表格であった。
▲月山、羽黒山、湯殿山の出羽三山の流れをくむ羽後町元城獅子舞

 修験者は、諸国の霊山を巡って修行し、験力を試すという山伏スタイルが出来上がっていった。江戸時代になると、移動が制限された結果、村里に定着し、加持祈祷をする「里山伏」へとかわっていった。農山村では、農業をしながら、無病息災や雨乞いなどの宗教活動とともに、山伏神楽とも呼ばれる番楽や獅子舞などの民俗芸能を霊山周辺の村々に伝授していった。
▲マタギのふるさと根子番楽「鞍馬」

 秋田を代表するマタギ文化は、狩りをする山は、神が支配する神聖な場所であり、獲物は山の神からの授かり物であると考える。その「マタギのふるさと」阿仁根子集落に伝わる根子番楽(国重要無形民俗文化財)は、山伏神楽の流れをくみ、勇壮活発で荒っぽい武士舞いが多いのが特徴である。

 番楽をやる人は、同時にマタギもやっていた。つまり、マタギと番楽は切っても切れない関係にあった。従って、根子番楽は、マタギの山神様のお祭りの時にやっていたのである。
▲行者ニンニク ▲山ワサビ

 山伏は、深山にこもって修行していただけに、「行者ニンニク」や山ワサビ、タケノコ、ワラビ、ゼンマイなどの山菜やきのこなどの山の恵みに長け、昔から漢方薬にも通じていた。山に入る時の様々な禁忌も含めて、山伏とマタギがまるで一体であるかのように不思議と似ていることに気付く。
▲三種町志戸橋番楽「恵比寿舞」

 マタギ文化や各地に伝承されている番楽、獅子舞などの民俗文化、今日の登山、沢登り、山釣りといった山をベースにした多様な文化は、自然崇拝→山岳信仰→修験道の文化と深く結び付いているように思われる。

 なぜ日本では、古今東西を問わず、「修験」「巡礼」と称して命の根源である霊山や滝、源流に霊力を求めて彷徨い続けてきたのだろうか。それらの表現形態は千差万別で、一見全く別物に見えるけれども、自然の神にすがり、群れなければ生きていけない最も人間らしい文化だからこそ、共感と感動を呼ぶ要因のように思う。その共通点は、「山是神」という一点に集約されるように思う。
「ブンカDEゲンキ 番楽・獅子舞の競演」一覧
 二日間にわたって競演された番楽、獅子舞の一覧を以下に掲載する。同じ獅子舞とはいっても、獅子頭や幕の色や大きさ、被り獅子の角の長短、腰に太鼓をつけた腰鼓など千差万別。同じ山伏神楽の流れをくむ番楽、獅子舞であっても、一つとして同じものはない。地域の数だけ多様な文化があることが分かる。

 途中でデジカメの電池が切れ、急ぎ家まで予備電池を取りに行き、「石川駒踊り」(八峰町峰浜)を撮影できなかったのが悔やまれる。
▲山谷番楽(秋田市太平) ▲仁井田番楽(横手市十文字町)
▲山内番楽(五城目町富津内) ▲富根報徳番楽(能代市二ツ井町)
▲仙道番楽(羽後町上仙道) ▲志戸橋番楽(三種町)
▲杉沢比山番楽(山形県遊佐町、国重要無形民俗文化財)

 杉沢比山番楽は、鎌倉時代から続いていると言われる番楽で、杉沢熊野神社に奉納される。杉沢熊野神社は、もとは鳥海修験の重要地であった。修験者によって舞われていたものが、後に村人たちの手に受け継がれたものと言われている。芸術的な評価が高いという。
▲屋敷番楽(由利本荘市)
▲鳥海山日立舞(にかほ市象潟町) ▲坂ノ下番楽(由利本荘市矢島町)

 坂ノ下番楽は、本海流の番楽。屋敷番楽(由利本荘市)は、天明の大飢饉に襲われ亡くなる人が続出した際、村人たちが荒沢に赴き、本海番楽を習得、五穀豊穣と悪疫退散を願ったのが始まりとされる。また、鳥海山日立舞は、本海流番楽とは異なり、1640年、生駒氏が讃岐高松より矢島へ転封された際、随行の薬師が伝えたとされている。「日立」とは鳥海山の炎が信仰に結びついたといわれ、豊作祈願と感謝の行事として、お盆に奉納されてきた。 
▲象潟町小滝・金峰神社 ▲延年チョウクライロ舞

 小滝・金峰神社は、鳥海山をご神体とする修験の拠点の一つであった。小滝村には、各地から来る信者たちを世話し、山がけの世話をする宿坊を中心として発達した典型的な坊中村落であった。金峰神社のすぐ傍に奈曽の白滝があるが、その滝は神と下界との境界線と言われている。小滝村には、1200年の伝統をもつ延年チョウクライロ舞(国重要無形民俗文化財)や小滝番楽が伝承されている。
▲本海番楽(由利本荘市鳥海町) ▲根子番楽(北秋田市阿仁)

 秋田県の中でも鳥海山麓一帯には、番楽、獅子舞が圧倒的に多い。1600年代、京都の修験者・本海行人が鳥海・矢島地域に居住し、本海番楽(獅子舞)を鳥海山麓一帯に広めたと言い伝えられている。本海番楽では、最初に必ず獅子舞を舞う。獅子舞と番楽は不離一体のものとして伝承されている。

 獅子は、舞うことによってはじめて大きな霊力を発揮する。修験者の獅子舞は、その強い霊力を借りて、さまざまな祈祷を行った。それは、信仰を具現化する宗教的な芸能であったことが伺える。特に鳥海山麓沿いに、今もなお生活と行事に密着して伝承されていることは、山伏系獅子舞の大きな特徴と言えるだろう。
▲阿仁前田獅子踊り(北秋田市阿仁前田) 
 阿仁前田獅子踊りは、1602年、佐竹義宣公が水戸から秋田に国替えを命じられた折、主君を慰めると同時に行軍の士気を鼓舞するために演じられた道中芸が始まりとされる。豊作祈願と厄払いの踊りで、特に駒踊りは勇壮で迫力がある。常州下御供佐々楽(能代市扇田)や切石ささら(能代市二ツ井町)も、佐竹氏の国替えの折に伝えられたという。
▲元城獅子舞(羽後町西馬音内) ▲切石ささら(能代市二ツ井町)
▲平岡獅子踊り(由利本荘市内越) 松館天満宮三台山獅子大権現舞(鹿角市八幡平)

 平岡獅子踊りは、1782年、赤田長谷寺の是山和尚が、悪事災難厄払いの神様として手作りの獅子頭が送られたたことから芸能として始まったと伝えられる。一人立ち三頭組の獅子踊りで、一頭の雌獅子に二頭の雄獅子が恋をする様を表現しているという。
▲粕田獅子踊り(大館市) ・・・粕田の歴史は古く、1517年に開拓したことに始まる。江戸時代初期、粕田集落を団結し守る意味から、平泉文化の影響を受けた獅子舞が踊られるようになったという。
▲鷹鳥屋獅子踊り(岩手県遠野市)
 左の獅子の形に注目・・・秋田の獅子舞からは想像できないほどデカク、姿、形、舞が異なっていた。一般に三匹獅子舞は、イノシシ、岩手県を中心に周辺にも広がっている獅子踊りは、シカを意味しているという。それは、シカを狩りして食べなければ生きていけない人々が、その霊を弔い慰めるために始めた芸能であると言われている。

 右の赤いほおかふりをした道化は、背中に赤いヒョウタンを背負っている。その中には、稲の種が入っていたという。悪疫退散と五穀豊穣を祈る儀式であることが分かる。
▲八沢木獅子舞(横手市大森町) ▲東長野ささら(大仙市豊川)・・・獅子の角がひときわ長いのが特徴。 
▲羽立太神楽(能代市二ツ井町)
 これぞオリジナリティの見本のような獅子舞。獅子頭の下を布で覆う点は同じだが、色が派手で、他の獅子舞に比べて桁違いにデカイ。その巨大な獅子が軽妙かつ激しく踊る姿が滑稽でユニーク。どんな悪霊も、この獅子舞にはかなわないような気がする。また、山の神がこの芸を見たら、さぞ喜ぶに違いない。
▲常州下御供佐々楽(能代市扇田)

 三匹獅子舞には、腹に太鼓をつけて、両手に持ったバチで打ちながら舞う形式が多い。最初は素朴な獅子頭を頭に乗せて踊っていたが、後に太鼓を囃子として使うことを考えたと推定されている。また、後ろに控えている頭に御膳を乗せ、華やかな造花で飾っているのに注目。地域の創意工夫を加えて、華やかな芸能へと発展したのが分かる。こうした獅子舞を「ささら」と呼ぶことが多い。
参 考 文 献
「山伏入門」(宮城泰年監修、淡交社)
「東北学第12号 特集 獅子舞とシシ踊り」(東北文化研究センター)

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