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▲横手市雄物川町木戸五郎兵衛村、旧寺田家(商家の直屋造り)

 2009年9月5日(土)、「秋田県中山間ふるさと水と土現地見学会2009」が横手市雄物川町、大森町で開催された。この現地見学会は、2004年、マタギの里阿仁からスタートして6回目の開催。今回の平鹿地域コース・「屋根のないふるさと博物館」巡りの地域資源を分類すればは以下のとおり。

▽歴史・民俗文化・・・農村漫談、岡本新内、木戸五郎兵衛神社、崇念寺、蔵光院、木戸五郎兵衛村、山城堰頭首工、八沢木獅子舞
▽食文化・・・地産地消弁当、平鹿の地産美味販売、大森ぶどう棚見学・大森ワイン試飲
▽美しき水土里の風景・・・八沢木塚須沢の棚田

日本初の血液型漫談師・辻田与五郎氏・・・「笑いと健康」
 横手市雄物川町沼館の農村漫談師・辻田与五郎さん(64)は、農業+日本初の血液型漫談師として全国各地で講演。これまで29都道府県、講演回数2,500回に及ぶ人気者。
辻田与五郎HP http://www.rnac.ne.jp/~yogorou/

 血液型の特徴は、A型はO、AB型に対して優勢。O型はB型に対して優勢。B型はA型に対して強い。AB型はO、B型に優勢。そして同じ血液型は、お互い譲らず、友情も愛情も破綻を来たす例が多いという。この法則を政治家の血液型から力関係を分析したり、自らの失敗談や選挙漫談を加え、会場は爆笑の渦へ。
 彼の漫談は単なる笑いだけではない。「叶う」という字は口に十と書く。人生はあなたが口に出した言葉どおりに動く。例えば「金がない、金がない」と毎日言っていると貧乏神がつく。「私はできる、私はできる」と繰り返し、繰り返し言えば、その夢は叶う。聴衆に夢と希望を与えてくれる。

 また、自ら実践してきた健康の秘訣・・・「健康にはニンニクが一番」と説く。ニンニクは、風邪や動脈硬化、高血圧、胃弱、胃潰瘍、肝臓障害、糖尿病、便秘、下痢、アトピー、ガンの予防になる。ニンニクの匂いは、電子レンジで加熱すれば消える。毎日、ニンニクを食べ、紅茶でうがいをすれば新型インフルエンザを撃退できると力説した。
横手市指定無形民俗文化財「岡本新内」
 明治の初めから昭和初期にかけて県内に広く流行した「岡本新内」は、江戸の市川団之丞こと泉庄吉によって創始された。彼は江戸に出て、七代団十郎の門に入って役者になったが、兄弟子にねたまれて毒物を飲まされ声がたたなくなった。役者を断念して田舎巡りの旅役者として諸国流浪の末、雄物川町沼館に落ち着く。
 彼は、町の娘たちや同好の人たちに芸を教え、暇をみては一座を組んで山形・福島両県にまで巡業した。岡本新内は俗に「岡本っこ」とも言われ、三味線、唄、踊りがそろって妙味がある。繊細な技巧と艶麗な曲節が特徴。現在は、岡本新内伝承会(会員22名)によって継承され、県内のイベントに出演している。
木戸五郎兵衛神社
 創建年代は定かでないが、1754年に社殿が造営されている。現在の社殿は、大正8年に再建されたもの。社名の由来は、菅江真澄が「雪の出羽路」において、後三年の役(1083〜87)における沼柵の「一の木戸」があったところという説と、木戸五郎兵衛某という人物の館の中に稲荷神社を祀ったためという説を紹介している。当社は、落し物、盗難に霊験があるとされている。

崇念寺とビクトル・スタルヒンの墓
 スタルヒン(1916〜57年)は、昭和9年、結成されたばかりの大日本野球倶楽部(巨人軍の前身)に入団。その生涯記録は586試合で303勝175敗、奪三振1960、完封84という大記録を持つ。しかし、彼の生涯は、決して栄光に彩られたことばかりではなく、むしろ不遇の連続だったという。
▲崇念寺住職・高橋大我さん
 ロシア人であるスタルヒンの遺骨が、なぜ、雄物川町に埋葬されているのだろうか・・・現住職の大我さんの父親は、型破りな人生を歩んだ高橋義雄さん、母親はロシア人女性・アラズモーアさん。昭和25年にスタルヒンと再婚した高橋クニエさんは、大我さんのお姉さんであったことから、スタルヒンは妻とともに崇念寺の地に永眠することとなった。
 幼いスタルヒンの一家は、ロシア革命で亡命、旭川に住み着く。地元の学校に通い、野球部のピッチャーとして頭角を現す。彼は、やっと落ち着いた旭川を離れたくなかったが、プロ野球界に強引に引き抜かれる。幸い野球選手として大活躍する。しかし、時局の悪化で「須田博」と改名させられたり、戦中は敵性外国人とみなされ軽井沢に幽閉された。これに耐え切れなくなった最初の妻レーナとは昭和23年に離婚している。

 失意のスタルヒンは、ロシア人クラブのクリスマス・パーティで高橋クニエという女性と出会い、昭和25年に再婚。事業の才覚があったクニエさんは、さまざまな事業を手がけ、野球選手のピークを過ぎていたスタルヒンを支えた。昭和30年、スタルヒンは引退。そのわずか二年後に、不慮の交通事故で40歳の若さで亡くなる。現在の墓は、平成元年1月、スタルヒン33回忌の命日に娘のナターシャさんが建立したもの。

 秋田県出身の直木賞作家・西木正明氏は、「凍れる瞳」でスタルヒンのことを書き直木賞を受賞している。また、型破りな人生を歩んだ崇念寺住職大我さんの父親については、高橋義雄に見る「放浪型」東北人の典型(西木正明氏が案内する東北文化)のページに詳しく記されている。
蔵光院・沼の柵本城址
 土塁に囲まれた蔵光院は、沼の柵本城址と伝えられている。雄物川町沼館は、西側を流れる雄物川と、かつて東側を流れていた皆瀬川とが形成した台地で、その一帯が後三年の役(1083〜87年)の戦場となった沼柵跡と考えられている。しかし、それがどの場所にあるか現在のところまだ特定できていないという。

 最近の研究では、沼館城跡(蔵光院周辺)と千刈田遺跡(木戸五郎兵衛村周辺)の中間を旧角間川街道が走っていることが分かった。また、金沢城跡と陣館遺跡の中間を旧羽州街道が走っている。こうした場所が要害堅固な場所として柵を巡らしたのではないかと推定されている。

▽前九年の役メモ
 8世紀以降、朝廷の北の地に対する支配力は、度重なる鎮圧にもかかわらず、過酷な悪政に対して反乱が繰り返された。その度に同族的なつながりを強め、知恵と力のある者が豪族として成長していった。

 それが出羽国の豪族として知られる清原氏と、隣の陸奥国(岩手県北上川流域)で大きな勢力をもっていた土着の豪族・安部氏である。

 阿部氏との戦いを「合戦」ではなく「役」というのは、東北が畿内から異文化の国とみなされ、東夷として蛮族視されていたことを物語る。現在は、「役」ではなく「合戦」と改められている。

 安部氏は朝廷に従おうとしなかったため、陸奥守源頼義に安部氏討伐の宣旨がくだった。しかし、頼義は阿部軍に大敗、清原氏に援軍を頼んだ。清原一族は1万数千の軍勢を率いて参戦・・・これが前九年の役で、東北の豪族同士の戦いとなったが、1062年に安部氏が滅ぶ。清原氏は奥羽の覇者となった。
▲後三年の役をテーマにした菖蒲太鼓(地球人フォーラム2009)
「後三年合戦絵詞」戎谷南山筆(横手市) 1083年、清原一族の清衡・家衡の内紛に、陸奥守源義家が介入し、大規模な戦いとなった。清衡・義家軍は、家衡のこもる沼の柵を攻めたが苦戦。四方を水で守られた沼の柵は簡単には落城せず、やがて激しい風雪の中での戦いとなった。

 清衡・義家軍は、寒さと食料欠乏のため馬肉を食って飢えをしのぎ、仮死状態の兵を懐に抱いて蘇生させたりしたが、多くの軍兵を失い敗退した。

 その後、家衡は沼の柵より要害堅固の地・金沢の柵へ移る。再び戦いが始まり、激しい攻防戦の末、清衡・義家軍は金沢の柵を攻め落とし、後三年の役は終わった。勝利した清衡は、藤原氏を名乗り中尊寺の金色等栄華を極めた平泉三代文化の基礎を築くことになる。

木戸五郎兵衛村

 江戸時代から大正時代の茅葺き民家4棟(市指定有形文化財)を移築復元し、一つの村のように再現されている。平鹿地域の昔の暮らし、家の造りなどを学ぶことができる。
▲木戸五郎兵衛村、旧佐藤家住宅
 在地の農家の造りをよく残している中門造り。中門とは、住宅の入り口部分のことで、曲がった先の方に屋根付きの入り口になっている形式。上から見るとL字型で、外観上は南部地方に多い曲家とほとんど同じ。中門造りは、雪の多い地方に多く見られる。建築年代は明治2年(1869)。
 突き出た先の入り口を入ると、右手に馬屋が二つあり、その奥にニワ(作業場)がある。馬を主家の中に飼う形式を内馬屋という。雄物川郷土史によると、農家で馬を大事にすることは、場合によっては人間以上で、馬屋は屋内の南面か東面に位置した日当たりの良い場所を選んだ。
 馬屋に続いて広いニワ(作業場、土間)があり、米の調整やその他の作業を行う。その二階は「ハリ」といってワラを積んだり、若勢(下男)たちの寝所にもなった。
▲奥の間と上座敷
▲縁側で地産地消弁当を食べる
▲茶の間には囲炉裏があり、仏壇、その上部に神棚がある。
 奥の間と上座敷で地産地消弁当を食べる。特に縁側は風通しが良く涼しい。縁側を隔てて二重仕切りの構造は、夏涼しく、冬暖かい造りであることが分かる。また、茶の間、奥の間、上座敷は客間用で普段はあまり使われない。しかし、客寄せなどがある時は襖を外し、大広間として使用する。
▲地産地消弁当・・・塩鮭、煮物、えびちり、地元産あやめ卵の卵焼き、ポテトサラダ、竹輪の野菜詰め、茄子の揚げ煮浸し、豚肉のしょうが焼き、ミニトマト、紫蘇昆布、地元産漬物、いものこ汁、地元産アップルジュース
▲旧石黒家住宅
 農家の中門造り。棟は屋根の最上部にあって、雨を屋根に沿って四方にあるいは二方に流す役目がある。まるで神社のようにエックス状の木でおさえてある。これを置ち千木という。これは日本海側に見られる形式で、南部地方の曲屋と区別することができる。建築年代は、江戸時代末期と伝えられるが、建築様式上では明治から大正の頃と考えられる。

 屋敷の周囲は、大体クネ(垣根)で境界をつけているのが多く、根の生えている生垣とサシクネ(柴垣)、棒杭を棚状にしたものも使われた。
▲広いニワ(作業場)と馬屋
 ニワ(作業場)で作業をするとき、内馬屋なら馬がよく観察できる。囲炉裏に座ると馬が見える民家もある。ニワ(作業場)では土足で仕事をすることが多い。冬は、ワラ仕事など室内作業のほとんどをニワで行った。

 雪国の農家の特徴は、ニワが特に広く、建築面積の半分以上を占めるものも少なくない。農家は住宅と同時に仕事場であることを物語っている。
▲仏壇の上の神棚
▲茶の間の仏壇と神棚 ▲縁側は風が吹き抜け涼しい
▲旧今野家住宅
 中門造りのように屋根付きの入口はない。上から見るとL字型に曲がっている。これは、農家の曲屋造り。曲屋とは言っても、外観上は中門造りとほとんど同じである。建築年代は江戸時代中頃と伝えられるが、建築様式上では江戸時代末頃と考えられる。
平鹿の地産美味販売

 右の写真は「おものがわ夢工房」(佐藤イチ子代表)の農家の女性たちによる特産品「粋果(すいか)の雫」。横手市雄物川地域では、昔から夏の間に作られ、腎臓の薬として薬局でも売られていた。そうした地域の食文化を健康への願いも込めて製品化したもの。

 旬のスイカを煮詰め、エキスと甘味を閉じ込めて作る。スイカ一玉分で約200g。価格は150g入りで2000円。ジャムのようにパンにのせたり、ヨーグルト、紅茶や牛乳に入れたり用途は多用。
▲旧寺田家住宅
 構造形式は、外観が長方形で直屋造りと呼ぶ。商家らしく馬屋は小さい。仕切りのない台所は、他の3棟と明らかに異なり、ニワ(作業場)と一体となっているのが特徴的。建築年代は明治13年。
 人の生活で大切なことは、火を炊くことと水を使うこと。左の写真は茶の間の囲炉裏、右の写真は奥にミジャ(水場)といわれる調理場があり、手前の台所には大きな囲炉裏がある。特に台所の囲炉裏は重要で、居間兼食堂として使った。囲炉裏の正面に主人が座り、玄関側は客座である。

 主人が座るところを上座又は横座といい、そこからミジャ、出入り口を隔てたニワなど、主人は居ながらにして家の中の誰がどこで何をしているのか、馬の様子まで一目で分かるような位置になっている。つまり、中門造りや曲屋形式は、横座に座って一家を見渡すという面で優れている。
▲板倉(穀物倉) ▲木戸五郎兵衛村入口
 明治時代、「豊作の年こそ不作に備えてモミを蓄えよ」という石川理紀之助が呼びかけた備荒倉構想があった。板倉は、そうした備蓄モミの役割も果たした。
参考:旧奈良家住宅(昭和40年、国の重要文化財に指定)
 建物の両端が前面に突き出す形は「両中門造り」と呼ばれている。入り口は二つで、正面左側が上手中門、右が下手中門になっている。また、広いニワ(作業場)には、大きな炉を切り、カマドを据えている。炉は、一般に「ニワ(作業場)囲炉裏」とも呼ばれ、馬の飼料や味噌用の豆、山菜などの煮炊き用から暖房用、照明用として使用された。農作業着のまま、炉に足をかざすこともできる。
▲マヤ(馬屋)・・・ 農家では入り口を入るとマヤがあり、人の足音を聞くと馬がマヤから顔を出してエサをせびった。
▲イシバとヨコツチ・・・ワラを打つためにイシバ(石場)がニワの一隅にあり、冬の夜更けともなればヨコツチでワラを打つ音が響いた。 ▲かまど・・・かまどは神聖なもので正月は餅を飾って祭った。財産をなくすと「あの家はかまどケエした」というのは、かまどの神がそれだけ尊敬されていた証左であろう。

300年余の歴史をもつ山城堰
 秋田県最大の河川・雄物川にある山城堰は、かつて300mもある川を「草止め工」で堰き止め、水田に水を引いていた。それに使用した土俵は3万俵、木杭2万本、粗朶2千束、作業期間は約1ヵ月を要した。大変な苦労を重ねて「草止め工」が完成しても、一度洪水が来ると流されてしまう。だから、かんがい期間中の無事を神に祈る「堰根祭り」が行われるようになった。

 現在もその伝統を引き継ぎ、毎年春に、当時の苦労を顧みながら通水の安全を祈願する「堰根祭り」を開催している。また、川で獲れたクキザッコ(ウグイ)を堰へ放流し、川の恵みに感謝する儀式も行っている。水路延長17km、受益面積813ha。
▽江戸時代の川留め工事の記録
「岩盤が近くて杭の利かない所は、柱4本を枠に組み、これに土俵やくり石を詰め込んで、砂利砂の中に埋めるという方法で川留めをした。しかし、こんなことまでして造った杭留枠留は、一回の洪水で、跡形もなく根こそぎさらわれ、せっかくの苦労も水の泡となってしまう事を、毎年繰り返していたのである」(「大森町郷土史」)
 菅江真澄「雪の出羽路」に記された山城堰の記録
 「この大堰は寛文4年(1664)3月の頃から、この土地の人足を集めて工事をおこし、大森の南、本郷から雄物川の水を引き入れて、これによって大森、十日町、袴形、板井田、内小友、その末大曲西根まで延々工事を進め、延宝3年秋までに大体の工事を完成したものである。

 この大堰によって、見渡す限りの広い田地が開かれ、この地の人は皆潤いを受けているのは全く東の殿のお恵みである。であるから、五カ村堰はまたの名を山城堰とも言って、今も当時の君の勲章を仰ぎ尊んでいるのである」

 現在の山城堰は、昭和27〜36年の用水改良事業と昭和51〜54年の用排水施設整備事業によって、コンクリート堰堤、鋼製ゲートそして三面装工の構造に生まれ変わっている。

八沢木塚須沢棚田
 塚須沢集落は14戸で、谷沿いに連なる棚田の面積は約18ha。高齢化が進む小規模集落だが、10年前から中山間地域等直接支払制度の支援を受け、先祖伝来の文化的景観を保全している。畦畔の法面は、長く傾斜もきついが、綺麗に刈り払いされている。人の手が加わった景観は暖かい。
▲農道の法面もきれいに草刈がなされている。
▲手作りの三脚で用水パイプを支える知恵と技に驚かされる。
▲沢から水を引く用水路の工事は、全て村の直営施行で行ったという。
▲棚田の保全を力強く語る塚須沢集落代表佐藤昇悟さん
 この棚田で米を作るには、現在の米価の倍以上ないと採算が合わない。電卓をたたくような人には、ここで農業なんてできない。私たちが元気なうちは、先祖伝来の田んぼを守り続けていきたい。皆さんの中に、ここで農業をやりたい方がいればいつでも歓迎したいと呼び掛けた。勤勉な棚田の風景、元気な村人、秋田県無形民俗文化財の八沢木獅子舞の継承など「元気ムラ」を象徴するような村だった。
八沢木獅子舞(秋田県無形民俗文化財、昭和40年2月23日指定)
▲子ども獅子舞
 300年の伝統をもつ八沢木獅子舞は、昭和40年に県の無形民俗文化財に指定されている。しかし、後継者不足で昭和53年から23年間は途絶えていた。平成13年、伝統継承と後継者育成を目的に八沢木獅子舞保存会を結成、地元の小学校の子どもたちに声をかけ、後継者育成に努めている。その成果を存分に披露していただき、観衆から大きな拍手が送られた。
 八沢木獅子舞は由緒ある保呂羽山波宇志別神社の行事の一つとする説と、八沢木村の創始菊地家が伊勢参りの際に習得し、当部落に伝えたとする両説が口伝されている。

 獅子を舞う人を獅子振りと呼び、前を前獅子、後ろを後獅子と呼ぶ。囃子方は笛吹き、銅拍子、太鼓とそれぞれ楽器名で呼称している。装束は、白装束、全員たすき、獅子振りは草鞋、手甲脚絆、他は下駄をはく。前獅子が右手に御幣または手に舞鈴をもつ。舞う時は伊勢の神明を飾りつけ、神酒を供える。

第一段階 「ご幣舞」
 前獅子が右手に御幣を持ち、舞台を二度回り、獅子方が「あまの岩戸をおしひらく、いざや神楽の伊勢かぐら、神のしずめをばまいらせる」の唱えごとをする。
第二段階 「剣の舞」
 前獅子が右手に御幣のかわりに剣を持ち替える。左手に舞鈴を持ち、たえず鈴を振りながら2回まわる。「おまえおのぼり、わしゃいまくだる。ヤレコレヤレコレしょんがいな」

第三段階 「狂い獅子舞」
 獅子舞が終了後、観衆は、獅子頭に頭をかぶりついてもらい、悪疫退散、新インフルエンザ撃退のご利益を祈願した。
ぶどう棚見学、大森ワインの試飲
▲高級品種リースリング・・・ドイツやフランス・アルザス地方など冷涼な地域で栽培されている白ワイン用のぶどう品種。 ▲左の二つは、国産ワインコンクール2009で銀賞に輝いた「日本の地ワイン 大森リースリング2008」・・・500ml 1本1000円
 陽射しを遮るぶどう棚の中は涼しく、ぶどうの甘い香りとともに心地良い空間が広がっている。生産農家からリースリングの栽培の苦労や特徴的な栽培技術などについて説明を受ける。ぶどう棚を借景に、冷えたワインを試飲すれば、殊のほか美味い。

 横手市大森町のリースリング栽培は、1982年、メルシャンとの契約栽培でスタート。1986年より秋田県限定で発売を開始。「大森ワイン生産組合」は27年の歴史を誇る。フルーティーな風味とリースリングの切れのある爽やかな酸味とやわらかい味わいのバランスが良いことが特長。
参 考 文 献
「秋田県の歴史散歩」(山川出版社)
「南部曲がり家読本」(瀬川修著、無明舎出版)
「大森町郷土史」(大森町)
「雄物川町郷土史」(雄物川町)
「雪国の民俗」(柳田國男・三木茂、第一法規出版)
各種配布資料

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