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鈴木牧之「秋山紀行」、八郎太郎伝説、狩猟と山漁、旅マタギと秋山マタギ、民宿「えーのかみ」・・・
雑魚川と魚野川が最奥の切明で合流すると中津川となる
中津川は、左岸に急峻な鳥甲山(2038m)、東には信越国境の苗場山(2145m)の間を流れ、
この深い谷間に点在する13集落を総称して、秋山郷という
▲秋山郷小赤沢集落

1828年、越後塩沢の文人・鈴木牧之(1770−1842)は、
58歳の時、町内の桶屋と秘境・秋山郷を旅し、1831年「秋山紀行」を書き上げる
この紀行によると、鈴木牧之が現在の切明(湯本)で秋田マタギと出会い、
草津温泉を市場に狩猟や山漁を行っていた様子が詳細に記されている

その由緒ある地で「第19回マタギサミットin栄村」が開催された
今回、初めて秋山郷を訪れ、鈴木牧之が書いた「現代口語訳 秋山紀行」を買うことができた

それを読んだ感想は・・・
今から約180年前の記録が、今日のマタギサミットと時空を超えて深くつながっていることを実感した
人は必ず死ぬ、しかし記録は残る・・・その記録は、時が経つほどに輝きを増していくように思う
民俗学の創始者・柳田国男「山の人生」
▲左:大正時代の阿仁マタギ 中:ケボカイの儀式 
右:鈴木松治氏の先祖が、旅マタギをして書いたという会津黒谷山を描いた図面

「マタギは東北及びアイヌ語で、猟人のことであるが、
奥羽の山村には別に小さな部落をなして、狩猟本位の古風な生活をしている者にこの名がある。

たとえば、十和田の湖水から南祖坊におわれて来て、
秋田の八郎潟の主になっているという八郎おとこなども、
大蛇になる前は国境の山の、マタギ村の住民であった

マタギは冬分は山に入って、雪の中を幾日となく旅行し、熊を捕ればその肉を食い、
皮と熊の胆を付近の里へ持って出て、穀物に交易してまた山の小屋へ帰る。
時には、峰伝いに上州、信州の辺まで、下りて来ることがあるという」

柳田国男は、秋田の旅マタギのことにも触れているが、
私がもう一つ注目したいのは、八郎太郎伝説とマタギの関係である

「八郎という類の人が山中に入り、奇魚を食って身を蛇体に変じたという話は、
広く分布している、いわゆる低級神話の類であるが、
津軽、秋田で彼をマタギであったと伝えたのには、何か考えるべき理由があったろうと思う」
「低級神話の類」というのは心外だが、主人公がマタギであるのはなぜだろうか
八郎太郎伝説・・・マタギと岩魚と龍の伝説
▲秋田県男鹿市船越八龍神社・・・八郎太郎を祀る神社

昔、草木村(鹿角市)に八郎太郎という17歳の若者が住んでいた
八郎太郎は、鳥や獣を捕ったり、マダの木の皮を剥いで集めたりしていた・・・つまりマタギであった
ある日、八郎太郎はマタギ仲間と3人で、泊まりがけでマダの木の皮剥ぎに出かける

八郎太郎が炊事当番の時、水汲みに行った川で岩魚を3匹捕まえ、焚き火で串刺しにして焼いた
こんがり焼けた美味しそうな香りに耐えきれず、魚を一口食べた
あまりの美味しさに、仲間の分の岩魚2匹も食べてしまった・・・
マタギの世界では、捕った獲物は平等に分配するのが掟、その掟を破ったため天罰が下る

まもなく、八郎太郎は焼けるような喉の渇きを覚え、桶の水を全部飲み干す
それで、ますます喉は渇くばかり・・・
川の流れに顔をつけて、日の暮れるまで休まず飲み続けた
八郎太郎は、いつのまにか竜になってしまった

こうして八郎太郎は、十和田湖の主となった
その後、南から来た修験者・南祖坊との戦いに敗れ、十和田湖を追われ八郎潟へ
八郎潟は漁労の民であったが、狩猟の神・八郎太郎を受け入れ、八郎潟の主となる
男鹿市船越の八龍神社には、八郎太郎を八龍の神様として祀っている

南からやってきた南祖坊は稲作農耕を代表する神、
マタギであった八郎太郎を狩猟の神と考えれば、この伝説の意味が分かるような気がする
すなわち、十和田湖を巡る二人の戦いは、大和朝廷に従わない蝦夷(エミシ)を征伐をする過程と重なるからだ

しかも八郎潟の中心を北緯40線が走り、その延長線上に阿仁のマタギ集落があるのは偶然だろうか
さらに、この伝説と旅マタギが川漁に従事し湯治場に売っていた事実と併せ考えると、
太古の昔から狩猟と川漁は一体であったことを示唆しているように思う
鈴木牧之「秋山紀行」・・・秋田の旅マタギ、狩猟と山漁の暮らし
▲左:秋山郷切明の吊橋 右:切明から中津川を望む

大赤沢を出て、わずか二軒だけの甘酒村でのこと
「雪に降りこめられたなら、さぞかしさびしいでしょう」と聞いてみた。女は答える
「雪の間は里の人は一人もやってきません
ただ秋田のマタギが時々やってくるだけでございます」

▽湯本(切明)
牧之が秋山郷を訪れた目的の一つは、秋田の旅マタギに会うことだった。
その際、彼を案内したのが湯本の湯守の主人・嶋田彦八・・・実は、彼も秋田マタギだったという
「信濃の箕作(みのつくり)村の嶋田三左衛門の分家だろうか」と記しているが、
嶋田は彦八を婿養子に迎え、湯本の湯治場の湯守として定着したという
▽秋田の狩人
「夜になると、約束を違わず、狩人二人のうちの一人が訪ねてきた。
年は三十ほどと見え、いかにも勇猛そう。背中には熊の皮を着、同じ毛皮で作った
煙草入れ、鉄製の大煙管で煙を吹き出す様子は、あっぱれな狩人と見えた・・・
「お国は羽州の秋田の辺りですか」と尋ねると、「城下から三里も離れた山里だ」と答えた」

当時、秋山郷に婿養子となった忠太郎は38歳、松之助は21歳・・・
田口先生は「牧之が湯本で出逢って話を聞いたこの30ぐらいの秋田マタギというのは、
彼らだったのだろうか、それともまた彼らとは別のマタギであったろうか」
と想像を巡らし「秋田マタギが秋山郷に定着した過程は実に面白い」と述べている・・・
その記録を読む、聞く者にとっても実にドラマチックで血が騒ぐほどにオモシロイ
▲秋田県上小阿仁村萩形部落跡(昭和44年集落移転)
右の写真:八木沢集落、背後の山を越えると阿仁町根子集落に至る

▽「山に生きる人びと」(宮本常一)によれば、
「お国は秋田のあたりかと聞くと、城下から三里へだてた山里だと答えた。
上小阿仁村あたりであろうか」と推測している。

上小阿仁村には、小阿仁川沿いの奥に八木沢と萩形のマタギ集落がある。
この八木沢、萩形集落は、文化元年・1814年に、いずれも阿仁町根子から分村した集落である
▽ 狩人の話・・・山漁と狩猟
「右は魚野川、左は野反川です。右の魚野川沿いに登りますと、
私たちが寝泊まりする小屋があります。
そこでは、三十センチほどの大物の岩魚を釣りますが、一度に数百匹は採りまして、
草津の湯治場に売ります。このところ岩魚の値段はとても高いのです。
また、魚が特に獲れない時は、鹿か熊、その他何でもいいのですが、ワナで捕まえ、
その皮をはいで肉を塩漬けにして、私ども三人いれば二人で売りに、
不漁の時は一人で草津の湯治場へ売りに行きます。残った二人は、一生懸命狩りをするのです」

旅マタギは、2〜3人の小集団で行われていたことが分かる。
そして、沢沿いに狩り小屋を設け、そこをベースキャンプに、狩猟や岩魚の漁を展開している。
一般にこうした岩魚やヤマメを捕獲する漁を「川漁」と呼んでいるが、
旅マタギの場合は、人跡希な源流部を漁場にしていることから「山漁」と呼ぶ方がふさわしい。

以降、山漁と呼ぶ。特に、夏は岩魚の値段が高く、山漁が中心で、釣り上げた岩魚を
最短ルートで市場(湯治場)へ売りに行っている様子が記されている。

▼疑問1・・・商品としての岩魚はどのぐらいのサイズであったか
旅館サイズの岩魚は、7寸〜8寸程度が好まれると思うが、尺前後の大物の岩魚を釣るとある
人跡稀な源流とはいえ、尺前後の大物ばかり数百匹も釣れるのは不自然な気がする
魚影の豊かな沢は、世代間のバランスもとれていると考える

尺物の岩魚は重く、かさばる・・・だから、牧之の記録にはないが、大きな岩魚は刺身にして食べたり、
焚き火でじっくり燻し、湯治場までの行き来に保存食として食べていたのではないかと思う
▲左:塩漬けにした岩魚を水にさらして塩抜きをする
中:風乾させ干物状態にする 右:ナラやヒッコリーなどの広葉樹で燻し燻製に

▼疑問2・・・夏は岩魚の鮮度を保つのは難しい・・・岩魚を腐らせることなく、どうやって運んだのだろうか

秋山郷の狩猟文化コーナーの「夏には漁師になるマタギ」によると
「5〜9月の間はイワナ漁の季節。マタギたちの多くは釣り師となり、イワナを捕獲している。
獲ったイワナはクマザサの葉で包み、冷たい渓流のなかに浸けておくと、一週間程度の鮮度が保たれる」

漁場から近い湯治場なら、生のまま運ぶことも可能である
しかし、草津温泉までは、
「そもそもここから草津への道は、我々狩人仲間だけの道で、普通の人たちはとても通ることなど
思いもよりません。距離は十三里ほど」もあると記されている。

その長く険しい山越えルートを考えると、生のまま運ぶことは極めて困難なように思う
しかし、「夏は岩魚の値段が高く」とあるように、生の岩魚であった可能性が高いだろう
一体、どんな技を使ったのだろうか・・・もしかして残雪の中に入れて担いだのだろうか
それとも深い室を掘って残雪を貯蔵していたのだろうか・・・想像は膨らむばかりである

肉を塩漬けにしているのと同様、釣り上げた岩魚は、腹を割き内蔵を取り出してから塩漬けにして保存し、湯治場まで運ぶと考えれば簡単ではある。
現代でも、イワナの塩漬けは、長期保存が完璧で、塩抜きして焼けば、生よりも美味しいくらいだ

しかし、鈴野藤夫氏の「山漁」には、「塩蔵は川魚の普遍的な貯蔵・保存法であったが、職漁が塩魚を商品とした例はそう多くはない。やはり塩出しが面倒で、
料理法や仕上がりに制約があったからではなかろうか」と記している。

ちなみに、塩抜きしてから、ベンケイに刺して囲炉裏で燻せば、味は凝縮され、数段美味になる
また、塩抜きした後に、岩魚鮨や三面のアラマキ、宇奈月名物岩魚の粕漬などに加工した例もある
▽ 昭和初期の岩魚民俗誌・・・秋田県仙北郡玉川部落の事例「秋田たべもの民俗誌」(太田雄治著、秋田魁新報社)

旧田沢湖町玉川部落では、昭和10年まで、盆近くになると集団で
大深沢や小和瀬川の源流へ出掛け、塩漬けの岩魚を雑魚箱一杯に入れて下山、
ただちに塩抜きをして、ベンケイに刺し燻製に仕上げると、実家への盆魚としていた

玉川の人たちはイワナは正月や盆のごちそう魚になるので、盆を前にして、
イワナのことを別名「盆魚」と呼んで、必ずグループをつくり、2・3日も沢々に野宿し、
夜釣りのイワナとりに出掛けることが、大切な行事であった・・・

イワナ釣りたちは、雑魚箱というものを各人が背負った・・・
フタがあってその下にナカゴがある。
ナカゴには味噌、味噌漬けなどの山で食べる副食物、それに塩蔵用の塩などを入れて持っていった。

野宿しながら、置きハリ、火ぶり、渓流釣りなどでとったイワナを、腹ワタをとり、
その日その日、新しいうちに塩蔵した。
この頃は各沢は夏の渇水期なので、豊漁なときで、野宿1,2泊、とれない時でも3,4日の釣りで、塩漬けのイワナが雑魚箱一杯になった。
それを盆魚と称し、家でさまざまなイワナ料理をして食べたのである・・・
野営の場所として、沢の中州を選ぶ。
このような所には流木がたくさんあり、これを焚き木の材料として山積みにし、大かがり火を一晩中たき続ける。

中州は、四方がよく見渡せるので、クマなどの野獣も近寄れない安全地帯である。・・・
置き針、刺し網、渓流釣りを行いながら、沢を移動してゆく。
食糧は味噌と米だけで十分で、とったイワナを焼いたり、煮たりして食べる。

味噌や塩蔵用の塩を持っているので、いろいろな山菜をとって食べるのだ。
焚き火でフキを焼いて沢の流れ水に入れておくと、そのまま味噌をつけても食べられるし、
イワナ汁に入れても、焼きフキは美味だ。(右上の写真は、玉川部落の漁場であった大深沢源流)
「米と塩だけあればよしとしています。こんな深い山奥へ、二十日も三十日も住みつくのでございます。
獣をいろいろ捕獲しまして、皮は売り物にします。
その肉は、自分たちが食べます・・・

着るものは猪や熊の毛皮、いつも着ている毛皮を夜具として寝ます。
寝ゴザ一枚あればすみます・・・
夜の漁は松明を灯して行い、時には網を投げ、その場所場所で方法を変えます。
昼はカギを使い、ヤスや釣り竿も使います。ですから魚や獣もすっかり食べ飽きてしまいます」

山に持っていくものは、米と塩だけで、他は全て現地調達でまかなっていたことが分かる。
岩魚や獣の肉だけでなく、山の野菜やキノコも食べ、栄養のバランスを保っていたに違いない。
奥が深い沢々に小屋を幾つも掛けて、一ヶ月の長期にわたり山ごもりしている。

岩魚や毛皮は、沢を詰め峰越えルートで市場へ売りに行く。
恐らく湯治場で換金しては、米と塩、味噌、あるいは釣り具、漁具、草鞋などを補給し小屋に戻ってきたのだろう。
▲マタギ道を辿り、幽谷の岩魚を追う北東北の山釣り

▽ 旅マタギは、山釣りや沢登りの原型?
「すべて川づたいの所々に小屋をかけておきます。
中津川の源流地帯や、例の魚野川の左に沿って木こりの道があるにはあります。
けれども・・・歩くのにたいへんなことは、とても言葉では言い尽くせません。

また、大滝というのがあります。
高さは20mもあろうという滝です。
その素晴らしい光景は、旦那さんに一目でもいいから、ぜひともお見せ申したいものです」

岩菅山を越えた所に、燕滝がある
「この滝の見事なことは、言葉にも話にも、とてもその一端も言い表せそうにもありません・・・
この辺りにも岩魚を獲るための小屋を掛けます。
ここに何十日と日数も決めないで、私どもは生活いたします」

日本の渓谷美を鑑賞しながら未知なる沢を遡行する楽しみと
源流の岩魚を釣る楽しみもあったことが伺える・・・
これを現代風に置き換えると、人跡希な源流地帯に野営し、岩魚や山菜・キノコを追う山釣りや沢から沢へ、
道なき道を歩く沢登りの原型は、既に江戸時代後半の旅マタギによって確立されていたことが分かる。

確かに生業と遊びじゃ次元が違う。
しかし、現代の山釣りでも、一ヶ月も山にこもる狂人もいる。
彼は、米や調味料が尽きると里に下り、食料を調達しては、また山にこもるというパターンを繰り返している。
毛針で岩魚を釣り、山菜、きのこを採っては幽谷の暮らしを繰り返す。
しかも、全国の源流を移動しながら岩魚を追うスタイルは、旅マタギと重なるものを感じる。
▲左:白神山地大川ケラオキバ沢のマタギ小屋(青森県西目屋村砂子瀬マタギ)
中:白神山地大滝又沢バンドリ沢のマタギ小屋(同上、いずれの小屋も現在は消滅)
右:和賀山塊堀内沢オイの沢に現存するマタギ小屋(秋田県仙北豊岡マタギ)

山釣りのフィールドとマタギのフィールドは、不思議に思うほど重なっている
北東北では、岩魚道のほとんどがマタギ道であり、
岩魚が遡上できない魚止め滝に出会っても、その滝上に岩魚が生息している

誰が放流したのだろうか・・・調べると、そのほとんどが山漁もしていたマタギたちであった
さらに原生林の奥深くにマタギ小屋を見つけることもしばしば
残念なことに、今ではそのほとんどが姿を消し、残っているのは和賀山塊のマタギ小屋のみとなってしまった
▲左:小国町長者原のオオモノビラ(大型獣用の罠) 中:コモノビラ(中小型獣用の罠)で石を載せている
右:阿仁のビラオトシ、いずれも獣がこの罠に入ると上から重い物が落ちて圧死させる構造

▽ 獣を捕る方法
「獣は夏はワナを仕掛けて獲ります。
このワナというのは、1mぐらいの高さに2本の木を立て、横木を結びます。
2mぐらいのまっすぐな横木の下に渡して、何本も枝木の上へ並べ、
木の端を下の横木にかき付けるには、フジツルなどを用います。

また、ワナの上に大きな石を幾つも置き、草木を切って、石が見えないようにふたをします・・・
漁小屋の近くに幾つも掛けて置きます。
ワナの下の蹴網のツルに足が少しさわりますと、横木に仕掛けがありまして、
一度に獣の上に落っこちて、押し殺します。

その肉は、三度三度食事に食べます。
幸い近頃獲った猿の皮が二枚ございます。よかったらお売りしましょうか」
秋田の旅マタギと秋山マタギ
▲秋山郷総合センター「とねんぼ」・・・秋山マタギの狩猟文化についても紹介

マタギサミット二日目・・・あいにくの雨だったが、秋山郷の猟場視察へ
車中、田口先生はハンドマイクを片手にしゃべり続けた
大赤沢に秋田県阿仁町打当からやって来た二人の旅マタギが婿養子として定着・・・
秋山マタギは、彼らの子孫が婚姻などによって広がり、狩猟組を形成していく歴史的経緯を詳細に語ってくれた

秋山郷一帯は、鷹狩りの主役・鷹の繁殖地で、狩猟禁止・・・実質上の保護区であった
1727年の文書では、秋山郷周辺に10名の巣守がいたことが記されている
この狩猟禁止区域に、秋田の旅マタギが入るようになるのが19世紀である
この時期は、幕府の弱体化と巣守らの特権が崩れてゆく時代であった
▲熊の落とし穴

1800年代、秋山郷の集落や焼畑周辺には、熊の落とし穴が幾つもあった
落とし穴は、深さが3.5m〜4.5mとかなり深い
この穴を一人で掘ることは不可能で、村仕事として掘られたと推測されている

当時、専門的な狩猟技術をもたない秋山郷では、農作物被害、人身被害に悩まされていた
また熊の胆など漢方薬の需要が高まっていたこともあり、害獣駆除と利用を兼ねて
村総出で熊の落とし穴を掘ったのだろう

19世紀前半になると、秋山郷へ組織的な集団猟を展開する秋田の旅マタギが入ってくる
伝承によれば、秋田の阿仁から秋山郷まで120里(480km)、歩いて1ヶ月と10日、9足の草鞋を要したという
彼らは、近世から明治にかけて、阿仁から奥羽山脈の尾根を南下し、関東や中部山岳地帯までやってきたという・・・車で走るだけでも丸一日かかるほど遠く、現代人にとっては、まるでスーパーマンのように見えてしまう

旅マタギは、巣守側にとってみれば、狩猟禁止区域を荒らす密猟者、犯罪者である
しかし、村にとっては、彼らを受け入れることによって、害獣を換金資源として利用する技術と市場を得る救世主であったに違いない

大赤沢に婿養子として定着した阿仁マタギの親子や鈴木牧之を案内した湯守の彦八、
和山集落の湯守も秋田マタギが婿養子となって定着したという。
これは、秋山郷一帯がクマやカモシカなどの野生鳥獣、岩魚の宝庫であったこと
また、群馬県の草津温泉や奥志賀高原の発ぽ温泉、熊ノ湯温泉、湯田中温泉など市場に恵まれていたためであろう。

病気療養の湯治客たちにとって、肉や熊の胆、カモシカの脂で作った膏薬
新鮮な岩魚などをもたらす旅マタギは、さぞ喜ばれたに違いない
こうしてマタギ文化は、中部東北の村々に伝播され・・・今日のマタギサミットへとつながった

▽秋山マタギ 山田文五郎翁(右の写真)
翁は、秋田からやってきて定住したマタギの五世
マタギたちは、日光修験道の信仰をもち、シカリの指揮に従って、組織的な狩猟を展開した
▲民俗学の祖と言われる菅江真澄(1754〜1829)
菅江真澄は三河国(愛知県)の生まれ。真澄30歳の時、長野へ旅立ち、
以降北へと針路をとり、新潟、山形、秋田、青森、岩手、宮城、北海道をめぐり、
48歳の時に再び秋田にやってきた。その後28年間、この世を去るまで秋田を旅し、多くの著作を残した。

山間奥地に細々と受け継がれてきたマタギの歴史文化は、記録がほとんどないのが最大の特徴
そんな中、1828年、鈴木牧之は秘境・秋山郷を訪れ、旅マタギの生活を克明に「秋山紀行」に記した
また、1805年、菅江真澄は、マタギの里として知られる奥阿仁地域を縦断し、マタギの習俗や伝説などを「みかべのよろい」などに書き留めている

「山ひとつ越えると根子(右の写真)という部落があった。
この村はみな、マタギという冬狩りをする猟人の家が軒を連ねている。
このマタギの頭の家には、古くから伝えられる巻物を秘蔵している。

祖先をヒコホホデミノミコトとする系図をもち、かれらのつかう山言葉の中には
獲物の肉をサチノミ、米を草の実といい、その中には蝦夷言葉もたいそう多かった。
佐藤利右衛門という地主の家に宿をかりた。ほかの国で庄屋というのをここでは肝いりの次の村長をいうのである」
▲小雨が降り続ける中、熱心に「熊の落とし穴」の解説をする田口洋美先生

現代のマタギ研究の第一人者・田口洋美先生は、三面から秋山郷、阿仁、富士山麓
山形や宮城、福島の村々を旅し・・・何かにとりつかれたように旅マタギを追い続ける
数少ない先人の記録と狩人たちの伝承、過去帳などを丹念に照合し、マタギ文化の伝播の過程を
解き明かしてくれた・・・その原動力は何だったのだろうか

「何故マタギたちは自らの命をかけてまで旅をしたのだろう。
生活のため、それだけだろうか。
彼らの血の中にそうした旅へとかりたてる何ものかがあったのだろうか」
(「マタギ 森と狩人の記録」田口洋美著、慶友社)
という自問自答に、答えが隠されているように思う
▲秋山郷小赤沢の民宿「えーのかみ」の女将さんと再会
左から福原きよ美・庄一夫妻、戸掘マタギ、鈴木シカリ

これも不思議な縁としか言いようがない
和賀山塊のマタギ小屋撤去騒動が起きたのが2000年1月のこと
その年の5月、その小屋を保存しようと、山釣りの大御所・瀬畑雄三翁と一緒に
秋田にやってきたのが、旧姓遠藤きよ美さんであった

彼女は、別冊「渓流」(つり人)にも度々登場していた女性クライマーだった
瀬畑翁が記した記録には、次のように記されている
「同行したのは東京・ぶなの会の佐野君と遠藤きよ美女史。
・・・きよ美女史も、美形の顔だちからはおよそ想像できかねるほどの達者なクライマーである。

・・・両人に共通するのは、なにをさて置いても山と釣りが好きなところ。
そして貪欲に自然を愉しむ術を心得ていることである。
・・・これを機会に佐野君のテンカラの面白さを堪能してもらいたかったが、なにせ
きよ美女史の見事なサオさばきに圧倒されてしまい、思う存分手が、いやサオが
だせなかったという感じであったかも知れない」
きよ美さんは、当時狩猟文化研究所の代表で「マタギサミット」を開催していた田口洋美先生に
マタギ小屋の危機を伝えてくれた・・・お陰で、2000年7月1日〜2日に新潟県村上市で開催された
第11回ブナ林と狩人の会・マタギサミットin三面に初めて参加することができた
そのマタギの歴史と文化の力によって、かろうじてマタギ小屋の撤去は免れるという奇跡が起こった

そしてほどなく、瀬畑翁から「きよ美女史が秋山郷に嫁いだ」との嬉しいニュースが届いた
今振り返ってみると、まさに「邂逅の森」といったドラマチックな出会いだっように思う
誘われるまま、民宿「えーのかみ」の居間に入ってお茶をご馳走になる

窓越しに棚田状に広がる田畑を眺め、音をたてて流れる清冽な流れが殊の外心地良い
書棚には、別冊渓流や田口洋美先生が書いた「マタギを追う旅」「マタギ」はもちろんのこと、秋山郷の民俗文化に関する書籍がズラリと並んでいた

さらに、民宿のすぐ上に小赤沢温泉(右の写真)があるという地の利もある
秘境・秋山郷のマタギを中心とした歴史・民俗文化を知りたい方におススメの宿だ

連絡先:秋山郷小赤沢、民宿「えーのかみ」 電話025-767-2119

2008年7月5日(未完)・・・つづく・・・
参 考 文 献
○鈴木牧師之著「秋山紀行 現代口語訳 信濃古典読み物叢書8」(信州大学教育学部附属長野中学校編)
○「マタギ-森と狩人の記録-」(田口洋美、慶友社)
○「東北学VOL3 総特集 狩猟文化の系譜」(東北文化研究センター、作品社)
○「山漁 渓流魚と人の自然誌」(鈴野藤夫、農文協)
○「菅江真澄遊覧記4」(内田武志、宮本常一編訳、平凡社)
○「山の人生」(柳田国男)
○「山に生きる人びと」(宮本常一)
○「森吉山麓 菅江真澄の旅」(建設省東北地方建設局森吉山ダム工事事務所)
○「最後の狩人たち」(長田雅彦、無明舎出版)

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