マタギサミット栄村1 マタギサミット栄村2 山釣り紀行TOP
ドイツ視察調査報告、パネルディスカッション、山間奥地の幸せ、桃源郷、ふるさと太鼓、秋山郷の民家、焼畑、旅マタギのふるさと阿仁・・・ |
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2008年6月28日〜29日、第19回ブナ林と狩人の会「マタギサミットin栄村」が 長野県栄村で開催され、マタギ関係者や研究者、学生など約150名が参加 まだ真っ暗な午前2時、秋田県大曲駅で仙北マタギと合流し、長野県栄村まで約400kmを走る さすがに遠い・・・江戸時代後半、秋田の旅マタギが入った秋山郷とはどんなところなのか マタギサミットが始まる前に秋山郷へ向かう 聞くと見るとでは大違い・・・秋田マタギと秋山マタギの深い絆を実感することができた |
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▲左:中津川左岸の急峻な鳥甲(とりかぶと)山(2038m) 右上:中津川 「秋山紀行」の解説を要約すれば・・・ 岩菅(いわすげ)山(2295m)から発した雑魚川と魚野川が合流し、中津川となる 冬期の積雪は3〜4mに達し、根雪は11月下旬から5月上旬の半年にわたる この間、交通は途絶し、陸の孤島となる・・・このために、古来からの文化が数多く残っている 秘境的雰囲気をもつ秋山郷は、民俗学の宝庫 平家落人伝説から秋田マタギの子孫説まであるが、敗走した武士たちが逃れて住み着いたのは確かであろう 厳しい自然は悲しい歴史をつくる・・・天明の大飢饉では、小赤沢で173人が死亡、 大秋山、矢びつの二村は全滅・・・甘酒村も十年後に飢饉で滅んだ・・・以降も、大凶作が時々襲った |
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▲長野県栄村かたくりホール受付 ブナ林と狩人の会「マタギサミット」は、1990年3月、日本の狩猟文化を研究している田口洋美先生の呼びかけに応え、 中部東北地方の豪雪山岳地帯に点在する新潟県三面、秋田県阿仁町、長野県秋山郷の 猟友会員、青年会、婦人会などの有志が集まったことにはじまり、毎年1回開催されている広域的山村交流会議 「マタギサミットをはじめた頃は、少数派・・・゜クマ殺し゛などという嫌がらせの電話が絶えなかった。 今は大分理解されるようになったが、゛動物が増えたから獲れ、減ったから獲るな゛・・・ というご都合主義では、若い狩人が育たない」という意見が印象に残った |
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▲日本民俗文化に関する書籍販売 「マタギ-森と狩人の記録-」(田口洋美著、慶友社、1994) 「マタギを追う旅-ブナ林と狩りと生活-」(田口洋美著、慶友社、1999) 「秋田マタギ聞書」(武藤鉄城著、慶友社) 「仙台マタギ 鹿狩りの話」(毛利総七郎/只野淳著、慶友社) 「マタギ 消えゆく山人の記録」(太田雄治著、慶友社) 「日本民俗文化資料集成」全24巻・・・「サンカとマタギ」、「森の神の民俗誌」など |
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「伝統と21世紀の狩猟:ドイツ視察調査報告」・・・東北芸術工科大学教授 田口洋美 | |||||
伝統的な技術や考え方に根ざした狩猟システムの再構築のヒントを探しにドイツへ ドイツは人口8,000万人に対して狩猟人口は約30万人 農地を中心とした一つの猟区は、約85ha程度の広さで、その狩猟区画の使用権を農家から有料で借りている 猟の対象はイノシシやシカ・・・ 農作物被害が出た場合は、猟師が弁償するというシステムになっているという |
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猟師の狙いは、肉ではなく、首から上の顔と角・・・そのトロフィーがほしくて猟をするという 簡単に言えば、ドイツの狩猟は、貴族のスポーツとして栄え 欧州の中でも貴族に独占されてきた歴史と文化を持つ 日本の狩猟は、田畑だけでは食べていけない山村の生業が原点 その自然と人間と文化の違いは、驚くほど大きい |
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▲ スクリーン・プロセスによる模擬射撃訓練施設 狩猟の免許は、森林生態学から捕った肉は食べて大丈夫かどうかに至るまで、相当勉強しないと合格しない 動物が動くスクリーンに向かって模擬射撃訓練をする施設は素晴らしく 若者を増やすことに貢献している・・・日本でも導入を検討してみてはどうか |
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▲ 食べて保全、使って保全 猟師は、首から上のトロフィーを手にし、首から下はレストランが買い取る ヤギぐらいの大きさのノロジカ1頭が約12,000円程度 レストランでは、地元産の野菜と地元産の野生鳥獣を使った料理が人気 レストランには、地産地消の度合いに応じて、星一つ、二つ、三つとをランク付けを行っている 地域のものを地域のために使う循環のシステムは、伝統的な技術や考え方に根ざした狩猟システムの再構築の参考となる 伝統と地産地消、21世紀の狩猟としては、阿仁町が提唱した「マタギ特区構想」は、いいアイデアだと思うのだが・・・ 参考 「マタギ特区構想」(河北新報あきた県内版 2004.11.28) 構想は、国が現在規制しているカモシカの狩猟やどぶろくの製造販売の許可のほか、 古民家への宿泊を可能とし、観光客が野生動物を食べられるよう規制緩和するというもの。 ・・・マタギは、シカリと呼ばれる統率者を中心に組織。 古くから受け継がれてきた信仰や慣習を守りながら、狩猟などを行い、自給自足の生活をしてきた人々で ・・・阿仁町観光課によると、現在、町には猟友会のメンバーが70人ほどいるが、 マタギ本来の信仰やしきたりを知る人は年々減少している。 町の提案では現在、国の法律で定められている狩猟期間を一ヶ月延長。 独自の鳥獣保護管理計画を作成し、特別天然記念物に指定されている ニホンカモシカの狩猟ができるよう規制緩和を求める。 また、伝統のマタギ文化を多くの人に知ってもらうため、 特区に限って古民家に宿泊、捕らえた野生動物を消費できるよう求めている 町観光課は「マタギの生活基盤を再構築するには、多くの人にマタギ文化を知ってもらうことが必要。 観光を振興することで、伝統的なマタギ集落を残していきたい」と話している。 2005年3月、「マタギ特区」に認定され、特区における「どぶろく」の製造・販売が可能になった これを受け、第3セクター「マタギの里観光開発株式会社」が製造許可を取得 2005年12月から阿仁地区の打当温泉で提供をスタートしている 残念ながらカモシカの捕獲は× |
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▲ 猟区内に敷設されたハイシート 猟師は上の小屋の中に入って、待ち伏せ猟を行う こうしたハイシートは、森の中にたくさん敷設されている しかし、追い込み猟と違って効率が悪く、なかなか捕れないだろう |
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パネルディスカッション・・・「伝統と現代」 | |||||
伝統と現代・・・昔を踏襲するだけでなく、現代に合わせて変えるべき所は変えていくべき 阿仁では、今年の春も捕獲自粛、調査のみだった 和賀猟友会は、奥羽山脈系と北上山地系がある。 奥羽山脈系は、今年も自粛で春クマ猟はできない。 若い頃は、春クマ猟をやっていたが、今は全くできない。 クマを捕ったこともない人たちと一緒に、夏の有害駆除行うのは怖くてできない。 会員は60歳以上がほとんどで、10年以上たつとほとんど残っていないのではないか |
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春クマ猟は、山形県のみが許可されている。それでも減ったということはありません。 大鳥では、歩けばクマが寄ってくるくらいいる。 無線もなかった時代の巻狩りは、独特の合図法があった。 その伝統を受け継いできた者にとって絶やすのは悔しい。 何とかビデオに残したいと思っている。 最近のクマは、人を見ても逃げない。 タケノコ採りの場合でも、かつてはクマの方が早く察知して逃げてくれだが、今は逃げなくなった。 |
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山熊田では、捕獲許可がでなかった。 養蜂業の被害は、昨年と今年連続発生している・・・こんなことは今までなかったこと これは春クマ猟をやらなくなったからではないか。 ドラム缶で捕獲し学習放獣することに疑問。 先ほど、人を見ても逃げないという話があったが、学習放獣は、クマが人を恐れなくなる懸念もある。 |
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資源として持続的に利用するには、伝統的文化的狩猟を保護管理計画にきちっと位置づけるべき。 例えば、期間と地域を設定して、ある一定程度は捕ってよいといった規制緩和が必要。 |
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阿仁猟友会の松橋さん・・・クマは、人間から見える時に怖がる。 クマが怖がる時に春マタギをやらせてほしい。 10匹いたとしても捕れるのは1匹だけ・・・逃げたクマは、鉄砲の音を聞いているし、人を見たら怖いことを学習する。 育てる教育も大事で、春クマ猟を経験した母クマは、小グマに人が怖いことを教えるはず。 春グマ猟は、クマに対する教育だと思う。 春クマ猟の大事さを分かってほしい。 クマは美味しく捕獲することが絶対条件。 そのためには、できるだけ接近して散弾銃で撃つのが望ましい。 しかし、仲間が少なくなると、300m〜400mも離れた位置から撃つしかなく、ライフルに頼るしかない。 肉の損傷が激しく利用価値が低くなる。 田口洋美先生は、パネルディスカッションの最後に次のような言葉で締めくくった 「秋山郷は標高800m・・・そんな奥地にも幸せはあるぞ、ということを若い人たちに知ってほしい そして地域の現実を理解し、都会と山村がお互いに尊敬しあう関係を築くことができればと思う」 |
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山間奥地にも幸せはある | |||||
▲左:秋山郷に嫁いだ女性クライマー・旧姓遠藤きよ美さん 右:左が脱サラして山形県小国町五味沢マタギの仲間入りをした関英俊さん (右はマタギ小屋を保存する会代表の瀬畑雄三翁、写真はいずれも第11回マタギサミットin三面にて) 2008年5月下旬、茨城グループと合同釣行に行った際、ジンさんが言った 「マタギサミットに参加している関英俊ってやつ知ってますか 関は、私たちの仲間だったんだが、42歳の時に茨城の会社を辞め、小国町のマタギになった男だ」という 彼のことは、高桑信一さんの名著「山の仕事、山の暮らし」(つり人社)を読んで知っていた 一般的な田舎暮らしと違って、 「関が異彩を放つのは、山とともに生きることを仕事の対象として求めた点である。 山菜やキノコなどの山の幸を採って暮らせないかと考えたのだ。 それは私たちが失って久しい、懐かしい時代の暮らしであり、狩猟と採集によって生きた 縄文びとへの回帰願望と呼んでもいいが・・・全く新しい発想である・・・ 三年が経ち、関はようやくこの地で暮らしていく自信を深めた・・・ 小国山岳会に入会し、狩猟免許を取って五味沢のマタギ衆の仲間にも加わった。 山とかかわって行きたいという関の、貪欲なまでの姿勢がもたらした果実である」 彼は、春はゼンマイを採り、夏は山小屋の管理人、秋はマイタケ採り 冬は、猟銃を肩に毎日のように山を歩く 「護るべきものを持ち、そのことに縛られる私たちと、 その日暮らしの関のどちらが幸福なのかは誰にもわからない。 けれどはっきりしているのは、すべてのものから関英俊は自由である、というその一点である」 つまり、いくつもの日本、いくつもの東北があるように、いくつもの幸せがある |
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▲秋山郷小赤沢集落 鈴木牧之「秋山紀行」には・・・ 秋山は全くの別世界・・・わずか29軒の草屋に、80歳以上の老人が今なお4人もいる。 また最近、98歳で天寿を全うした者もいる・・・ よくよく考えてみると、我々文明の中で暮らす里の者は、さまざまな悩みを心身にため、 欲望をほしいままにし、鳥や魚の肉を食べ散らし、悩みや悲しみで心を迷わして、日々暮らしているのではないか。 これでは・・・寿命を縮めるばかりである・・・ ここ秋山の人こそ神のように長寿である。 これは自然のままに生活し、トチの実やナラの実、アワやヒエなどを常食にしている。 これは天から授かったこの土地の産物である。 その生活ぶりも仙人のように、つつましく暮らして飲酒もしない・・・ 全く鳥や動物と同じ、自然のままの暮らしだと言える・・・ できることなら、この私も一度はこの秋山の猿飛橋の絶景に庵を作り、 中津川の清流で命の洗濯をしたいものだと思うようになった次第である。 |
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見果てぬ夢・・・桃源郷・・・田園詩人・陶淵明、菅江真澄 | |||||
▲白神山地に位置する秋田県八峰町手這坂集落 牧之は、秋山郷を訪れ、あたかも桃源郷の世界のように描いている。 同じく同時代に秋田を旅した菅江真澄は、旧峰浜村手這坂を訪れ、 手で這うような坂を下ると、突然、桃の花が咲き誇る村が現れ、その村の美しさに感動し「桃源郷」と称えている。 今から千六百年も前に生きた田園詩人・陶淵明・・・彼は「田舎暮らし」を実践した元祖である。 彼は365年、「天下の濾山」の山裾ののどかな農村地帯に生まれた。 やがて何度も官史の職についたが、全て長続きはしなかった。 彼は、堅苦しい役人生活には耐えられなかった。 もう二度と官職にはつくまいと堅く決意して故郷に帰って行くのである。 淵明41歳のときであった。 彼は心も暮らしも、ともに安らかであるようなユートピアを夢見て田園に帰って行った。 だが、その生活は思いのほか労苦に満ちたものだった。 けれども彼は後悔しない。 それどころか、このうえなく幸福に思うのである。 自然と自由を手に入れた淵明は、田園の中に「桃源郷」という理想郷を創作、 いつも文章を綴っては、ひとり楽しみ、損得など気に掛けず、その生涯を終えた。 心が自由であろうとすれば生活は苦しく、暮らしを楽にしようと思えば精神は束縛される。 淵明が創作した「桃源郷」は、自分の見果てぬ夢として、人々の心の中に生き続けているように思う。 |
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▲左上:栄村長あいさつ、秋山紀行の一文を朗読 左下:和賀猟友会清水さんと秋田のマタギたち 右:秋田県阿仁「またぎ」のラベルが貼られた酒で記念撮影 |
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▲栄村のふるさと太鼓 若い女性だけの和太鼓を聞くのは初めてのこと 全身全霊を込めて太鼓を叩くスピードと力強さ、個性溢れるリズミカルな演奏・・・ 秘境・秋山郷で狩猟と山漁を展開していた秋田の旅マタギやその子孫である 秋山マタギたちの魂が、演奏者に乗り移ったかのように、観客の魂を揺さぶった・・・ 魚に例えるなら、中津川の清流を元気に泳ぐ若岩魚のような和太鼓・・・素晴らしい |
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▲左:田口先生がハンドマイクを片手に秋田の旅マタギと秋山郷に狩猟組を形成する経緯を熱っぽく語る 右:秋山郷小赤沢集落全景、右の高い山が苗場山 |
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▲苗場神社 秋山郷の3山・・・苗場山(2145m)や佐武流山(2192m)、鳥甲山(2038m)の山開き式は 毎年6月の初めに、栄村小赤沢の苗場神社において、登山客らが参加し、安全を祈願する神事を行っている。 |
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▲秋山郷総合センター「とねんぼ」・・・秋山郷の民家 秋山紀行には、 「囲炉裏は1.5m四方、そこで鍋がふつりあいな2、3mもあろう大きな薪を焚いている。 ・・・火棚はというのは、2m半から3mの大きな二本の木を、太い縄で釣り下げ、 その上にカヤのヨシズを敷き、粟穂を山のように積み上げて干して置くもので、 これまで度々村ごとに見てきたものと同じである。 ・・・鍋のふたを見ると、6cmほどの棒を真ん中に付けて取っ手にしている。 炉の中は、どこにも火箸というものは見あたらない。木の枝でその用を足している」 |
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「小さな釣棚に伊勢神宮の神棚もある。 そこには小さなシメを張っている。 その脇に神社のお札もいくつかみとめられる」 「・・・この秋山という土地は、十月か十一月から翌年の春まで、雪に降り込められて、里との行き来はありません。 村々はものすごい雪で、家が埋もれてしまいます。 周りの山々も雪をかぶり、その真ん中に中津川が流れています。 山の上から雪崩がいつ襲いかかってくるかもしれません。 なかなか険しい山道ですから、里とは往来できません。 閉じ込められたカタツムリの家のようにして冬を送ります。 お寺もすぐ近くですが、吹雪や雪崩で、葬式もできません」 |
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▲焼き畑耕作(苅野) 展示の解説には、 「世界的にみると、焼畑は冬の乾季に山林を伐採し、春雨季に入る直前に野火をつけて造成する。 雪の多い秋山では、梅雨明けの夏の小乾季に火入れする。 降雨があり次第、ソバ、ダイコン、カブなどを栽培する。 二年目からアワ−大豆、あるいはエゴマ−アワ−大豆−アワの順に作付けし、 最後にソバ、エゴマ、キビなどを作って捨て、山林に還元する 焼畑を苅野(かんの)というのは、東北地方と共通しており、秋山郷の農耕文化も 山形県温海町など東北の山村型であることを示している」 |
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「山に生きる人びと」(宮本常一著、未来社刊)には、 鈴木牧之の「秋山紀行」に描かれた旅マタギたちの生活を詳細に記し・・・ 以上、長々と「秋山紀行」に見えた秋田マタギの生活を掲げたのは、 マタギの生活がどのようなものであるかを実によく伝えているからであって、 狩猟のみで生活をたて得る余地のあったことを物語る。 しかも秋田ではマタギは集落をなし住んでいるが、夏季のこうした移動狩猟はきわめて少人数であった ・・・狩猟以外の農耕などによって生活のたつ道があれば、それにしたがったであろうが、 マタギの村の多くは農耕に不適な場所に立村していたから、 猟は獲物を探して三々五々移動狩猟が試みられたのである。 ・・・猟師は狩猟のかたわら農業を営んでいたが、農業には全然タッチしない者も少なくなかった。 秋田県角館のマタギは冬は主としてクマを追って歩くが、 夏は川で鵜飼を行なってアユやコイ、ウナギ、イダなどをとっている。 ・・・作物を鳥獣の害から守ることは容易でなかった・・・ 野獣とのたたかいに農民のかけたエネルギーと知恵は大変なものであったといっていい。 そしてその中で果たした狩人の役割は大きかったのである ▼アユの鵜飼い漁 鵜飼いと言えば、長良川が有名だが、江戸時代の頃は秋田でも盛んに行われていた。 一人一鵜で、川下から石を下げた網を回してアユを追い込み、網の内側に鵜を放してアユを獲らせる。 あるいは、網ではなく20mほどの太縄に河原石をたくさん下げて、 大勢で川いっぱいに上流に向かって引き、時々鵜を離して獲らせる漁法だった。 記録では、明治、大正の頃まで行われていたと記されている ▼イワナの「鵜追い」(追込み漁)(田沢湖町田沢) 晩春から梅雨にかけて行われたものだが、本物の鵜を使うのではなく、鵜に見せかけ追い込む漁法。 4mほどの竿の先を尖らせ、約50センチほど下にカラスの羽あるいはイタチの毛皮、 ブドウの皮などを巻き付け、鵜の体にみせる。 その下60〜80センチほど離して同様のものをつける。 その竿を持ち、静かに淵に入り、水中を突き回す。 イワナは鵜と思い、逃れようと下流の瀬に逃げる。 その下流でカジカ網を張って待ち、すくいとる。何ともオモシロイ漁法だ。 |
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▲左上:山深い奥阿仁地域の中でも、最も奥地にある阿仁打当の水田と「打当温泉マタギの湯」を望む 左下:クマ牧場で神の山・森吉山をバックに記念撮影 右:阿仁打当の山神神社 来年は、第20回という記念すべき年であり、旅マタギのふるさと・秋田県北秋田市阿仁で開催される予定 今回は「秋山紀行」や秋山マタギの歴史・民俗を学ぶことができただけに、 その本家である阿仁での開催は、楽しみが倍増したような気がする 来年は、秋田のマタギ文化を応援するものとして、皆さんの来県を心からお待ちしております |
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参 考・・・マタギのふるさと・秋田マタギ | |||||
▲北秋田市阿仁の代表的なマタギ集落は、根子、打当、比立内である マタギ集落を囲む山々は、ブナの原生林が圧倒的に多く、 山頂の名前もブナ森、猿倉森、六左衛門森、高崎森、高場森、白子森など森の付く名前が多い。 これは、山頂までブナの森に覆われていたことを示している。 世界遺産に指定された白神山地と同じく、森吉山東麓のブナ原生林では、 国の天然記念物・クマゲラも確認されている。 かつては、熊をはじめとした野生動物たちの楽園でもあった。 農業だけでは食べていけない山間奥地ではあるが、ブナの恵みにあふれた豊かな自然があったのである。 ここに、マタギという特異な文化が生まれ、継承されてきたのもうなづける。 ▽里人と山人の歴史 秋田に米づくりの技術が伝播したのは、弥生時代後半 しかし、社会の変化を伴うほど米の収穫は得られず、狩猟・漁労・採集に依存する度合いが高かったと思われる 里人は、米に依存する生活を中心とし、比較的狭い範囲の生活空間であった こうした里人は、やがて律令体制に組み込まれ、里人の生活を発展させた 一方、縄文の伝統的な狩猟・漁労・採集に生活基盤を置いた山人もいた 実際、古墳時代になっても堅果類、野生のイモ類、獣や鳥などを生活の糧としていた この人々の生活範囲は、里人より広いものであった このような山人の生活を最も典型的に後生まで残した人々が「マタギ」であると言われている |
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▲山の神が宿る森吉山(1,454m)と美しき棚田(阿仁戸鳥内棚田・・・マタギの里清流米として販売) 「山神様は、それはそれは美しい女神様だども、気がたけだけしい。 夏の間は田畑の神様で里さ降りでおじゃるが、冬になるど神聖な山さ入られる。 そうすっと、けがれだ里のごどは一切お嫌いになるので、里の言葉は使わんね」 ・・・だから昔のマタギは山に入ると、里言葉は禁止され、仲間だけに通用するマタギ言葉を使った。
▽秋田のマタギメモ マタギというのは、クマなどの大型獣を捕獲する技術と組織をもち、狩猟を生業としてきた人をいう。 中でも秋田県の仙北や阿仁地方には、マタギの村が多かった。 彼らは、クマ狩りなどの集団猟を得意とし、晩秋から早春にかけて山に入り、 拠点となる場所に設けた簡単な狩り小屋に泊まり込んで、クマ、カモシカなどの大型獣を捕った。 かつては、旅マタギとして他国、他領の山に行くことも多かった。 秋田マタギが歩いたところは、青森、岩手、山形、新潟、福島、長野、群馬、富山など 東日本の脊梁山地の全てといえるほど広い範囲に及んでいる。 旅先で養子などに入り、その土地にマタギの技術を伝えたという例も少なくない。 山や動物についての豊富な知識と独特の狩りの作法や禁忌を持ち伝え、 獲物を求めて回帰性移動を行いながら山に生きてきた人々である。 |
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▲マタギ集落・北秋田市阿仁根子集落 「マタギの村は、周囲を高い山嶺に囲まれた谷奥や小盆地に立地している。 良い猟場を間近に控えたところである。 かつては、険しい峠を越えて入らなければならない隔絶された山村であった。 農耕だけを目的として拓かれた村でないことは、その景観が物語っているが、 屋敷まわりの平地は、畑に拓き、麻や蔬菜類を作り、水かかりの良い谷あいは水田として稲を作った。 背後の山も傾斜の緩やかな場所は、焼畑にしてアワ、ヒエ、ソバ、マメなどを栽培していた。 マタギの村では、食料自給のための農耕は、主として女の大事な仕事であった。 このほか、春の山菜、秋のキノコ採取や木の実をひろって調整するのも女の大事な仕事のひとつであった。 男は、冬から春にかけての猟期には狩りが主であったが、夏には川漁を行うことも多かったし、 「熊の胆」などの売薬行商に出る人もいた。 狩猟が下火になった現在では、山仕事や条件の良いところでは、農業を主とする人も多くなっている。 マタギの村もまた、それぞれの時代に外からの影響を強く受けて、多くの変遷を辿り、 往事のままではないが、彼らの生活文化の中には、 ブナ帯の山地で恵まれた山棲みの伝統が色濃く残されているようである」 (「図説 秋田県の歴史」田口勝一郎ほか、河出書房新社) |
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「マタギ 消えゆく山人の記録」(太田雄治著、慶友社)や「山に生きる人びと」(宮本常一著、未来社刊) 市町村郷土誌等を参考にまとめると、秋田県内のマタギ集落は以下のとおり ▼北秋田・鹿角郡のマタギ・・・根子、荒瀬、萱草、笑内、幸屋渡、比立内、戸鳥内、中村、打当、 阿仁前田、小又、森吉、砂子沢、八木沢、萩形、金沢、大湯、大楽前の各集落。 ▼世界遺産・白神山地のマタギ・・・峰浜村、藤里町、(青森県西目屋村、鯵ヶ沢、深浦町、岩崎村) ▼仙北郡のマタギ・・・上桧木内、戸沢、中泊、堀内沢、下桧木内、西明寺、潟尻、玉川、 小沢、田沢、生保内、刺巻、神代、白岩、中川、広久内、雲沢、大神成、栗沢、豊岡、湯田の各集落。 ▼由利郡のマタギ・・・百宅、上直根、中直根、下直根、猿倉、上笹子、下笹子、小友の各集落 ▼雄勝郡のマタギ・・・東成瀬(岩井川、入道、手倉、五里台、天江、大柳、桧山台)、羽後町上仙道桧山(鷹匠) ▼平鹿郡のマタギ・・・山内村三ツ又、南郷。 マタギ集落の分布は、森吉山、白子森、太平山、八幡平、白神山地、和賀山塊、鳥海山、栃ケ森山、 栗駒山など、ブナ帯が広がる地域に集中して分布している・・・だから「ブナ帯文化」とも呼ばれている 特に秋田マタギは、阿仁や仙北、由利に多かったことが分かる 第20回は、阿仁だけでなく、仙北マタギ、由利マタギの伝統を持つ連携を期待したい |
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参 考 文 献 | |||||
鈴木牧師之著「秋山紀行 現代口語訳 信濃古典読み物叢書8」(信州大学教育学部附属長野中学校編) 「山に生きる人びと」(宮本常一著、未来社刊) 「山の仕事、山の暮らし」(高桑信一著、つり人社) 「図説 秋田県の歴史」(田口勝一郎ほか、河出書房新社) 「秋田たべもの民俗誌」(太田雄治著、秋田魁新報社) |
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