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第17回ブナ林と狩人の会:マタギサミットinやまがた
 2006年6月24〜25日、「第17回ブナ林と狩人の会:マタギサミットinやまがた」が山形市で開催された。山形市と言えば、マタギの先祖と言われる万三郎伝説が山寺の立石寺に伝えられている。その山寺を訪ねた後、マタギサミットへ。24日の交流会はウェンサンピア山形、25日のマタギサミットは、「季刊東北学」で有名な東北芸術工科大学を会場に、マタギ関係者や研究者、学生など約160名が参加。
第17回ブナ林と狩人の会:マタギサミットinやまがた交流会
 マタギたちに言わせると、交流会は本番で、翌日の講演会は付録だとか。ブナの森や谷の奥深くに分け入り、獣や山菜、キノコ、岩魚を追い掛けることに人生を賭けた人たちと飲みながら語り合うのは楽しい。見知らぬ人と語っていても、不思議とどこかでつながっているのもオモシロイ。

 そのマタギサミット実行委員会委員長の田口洋美東北芸工大教授、同大学副理事長の古澤茂堂氏のあいさつに続き、元三面マタギの小池善茂さんの乾杯でメインの交流会がスタート。小池さんには、第11回マタギサミットの現地視察で、奥三面ダムに沈む村を案内していただいた。マタギでもない単なる釣り屋が、あれから7年連続マタギサミットに参加できたことは光栄に思う。
 交流会を盛り上げてくれた和太鼓「太悳(たいしん)」・・・東北芸術工科大学川口幾太郎研究室が主宰する和太鼓グループ。力強い和太鼓の響きは、座っていたテーブルがブルブル震えるほどだった。オリジナル曲は「遊山」「追い風」「実り」「睦合囃子」。
 右から大村良男山形県猟友会会長、松田美博秋田県猟友会副会長、田口洋美マタギサミット実行委員会委員長。松田さんに、「お前はマタギサミットの広報マンだから撮れ」と命令され撮影した一枚です。
 奥右の和賀山塊を猟場にしている戸堀マタギと熱心に語り合っていた仲間たち。聞けば、和賀岳を隔てた和賀猟友会の人たち(左が清水孝夫さん、右が後藤昭市さん)だった。今度は和賀山塊でお会いしたいものです。
写真:和賀岳稜線を望む。曲がりくねった深い切れ込みをみせる谷は掘内沢上流八龍沢。この稜線の向こう側が岩手県沢内村。

 岩手県沢内村の名マタギと言えば、米倉金太郎さん。和賀山塊周辺には、体重220kg以上、足にコブのある巨大なクマが生息していた。すばしっこく、どんな名人でも射止めることができなかった伝説の大グマ・コブクマ・・・昭和34年4月、動物作家・戸川幸夫氏が豊岡・白岩マタギたちと和賀岳のナンブツルで、雪上にコブクマの足跡を発見、写真撮影に成功している。足跡は、普通のツキノワグマの倍以上で、内側にコブと思われる跡もあったという。

 米倉マタギは、そのコブクマと遭遇したことがあった。血が騒ぎ、仕留めようと思ったが、なぜか武者震いが止まらない。逃げられたのか、コブクマの方から立ち去ったのか記憶がないほど、例えようのない恐怖とあぶら汗が出たという。
 写真:秋田県最後のマタギ文化を象徴する小屋、通称「お助け小屋」

 米倉マタギは、八龍沢右岸の尾根・通称「ナンブツル」を辿って仙北マタギのお助け小屋や、その前身の桂小屋に何回も訪れていた。昔は米を買うために小屋の近辺へ峰越えもしていた。米倉マタギは、1999年11月、88歳の生涯を閉じた。仙北マタギの名シカリ・藤沢佐太治さん(2000年1月11日89歳で逝去)は、彼と時を同じくして亡くなり、その直後にお助け小屋の撤去騒動が起きた。

 この騒動をきっかけに、和賀山塊に生かされた仙北マタギと山釣り仲間が団結し、2000年4月、マタギ小屋を保存する会を結成。2000年7月、第11回マタギサミットへ助けを求めて初めて参加することとなった・・・時はミレニアム・・・東北の自然保護運動は、自然のみを残す考え方から自然と人間と文化は表裏一体との考え方へ大きく転換。かくしてマタギ小屋の撤去の危機は、かろうじて回避された。
「21世紀における持続的資源利用を目的とした狩猟システムの構築に向けて」
2006年6月25日、マタギサミット、東北芸術工科大学本館4階410講義室
 「東北文化研究センター設立の宣言」・・・自分の体の中を流れる血が、農耕民族ではなく、狩猟民族だと感じている人にとっては、血が騒ぐ名文だと思う。この宣言を読めば、いかにユニークな大学であるかが分かる。

 弥生史観の暗闇の中から、縄文の光が大きく 日本の魂を揺さぶりはじめている。
 東北には、一万年を超える長きにわたって、縄文の精神が脈々と受け継がれてきた。
 ・・・今日、三内丸山に象徴される数々の発見は、
 弥生にはじまる農耕文化が日本の文化の原型であるという定説を覆し・・・

 この東北こそ、日本に残された最後の自然−母なる大地−である。
 現代文明の過ちを克服し人間の尊厳を取り戻す戦いの砦である。
 東北芸術工科大学は、この豊穣な大地の懐に抱かれて、
 次代を担う青春と、人類の未来に思いを馳せる多くの良心を結集し、
 縄文の心を、新たな世界観へと結晶させることを願って設立された。
 田口洋美東北芸工大教授は、文部科学省に申請していた「少子高齢化時代における持続的資源利用型狩猟システムの開発に関する新領域研究」というテーマが日本学術振興会科学研究費補助の対象に決定。研究グループは、田口先生ほか16名・・・動物学、生態学、植生学、歴史学、民俗学、文化人類学、社会学、法学など豪華メンバーがそろっている。

▼研究目的・・・2004年のツキノワグマの多発出没など、近年大型野生動物による地域住民の遭遇被害や農林業被害が顕著。地域住民の合意を促し、被害を軽減し、野生動物を適正に保護するために、人間と動物の関係史の上に構築される持続的資源利用型の保全管理狩猟システムをモデル化することが本研究の目的。調査研究期間は3年・・・「マタギは絶滅危惧種」と言われて久しいだけに、実効可能な成果を期待したいと思う。
田口洋美(研究者代表)・・・東北芸術工科大学教授、東北文化研究センター研究員。「マタギ-森と狩人の記録-」(慶友社)、「マタギを追う旅-ブナ林と狩りと生活-」(慶友社)
佐藤宏之・・・東京大学考古学研究室。専門は先史考古学、民族考古学。「小国マタギ−共生の民俗知−」(農文協、編著)ほか
白水智・・・中央学院大学。専門は日本史概論、日本史特論、日本文化史。「知られざる日本−山村の語る歴史世界」(日本放送出版協会)

神崎伸夫・・・東京農工大学、専門は野生動物保護。
羽澄俊裕・・・(株)野生生物保護管理事務所
小松武志・・・北秋田市、マタギ特区などマタギ文化を活かした観光に取り組む
橋本幸彦・・・(財)尾瀬保護財団、尾瀬のクマ問題に取り組む
伊吾田宏正・・・NPO法人西興部村猟区管理協会、エゾシカの持続的資源利用に取り組む。
 以上研究者グループ8名、マタギ6名、計14名がパネリストとして参加。
▼長野県信濃町では、クマの学習放獣をしているが、その後のフォローまで手が回らず危険。一昨年、クマに襲われ死亡事故が発生、今年も6月にタケノコ採りの男性が襲われ死亡している。しかもクマ避け鈴や大音量のラジオを鳴らしていたにもかかわらず襲われたらしい。

▼野生動物の保護管理は、外国のコピーでは×・・・大陸型システムは、クマをドラム缶のワナで捕獲し、忌避学習をさせた後、ヘリコプターで運んで奥山に放獣する、あるいはゾーニングによる両者の棲み分けが可能。一方、狭い島国・日本では、野生動物と地域住民の活動が相互に重複、近接、混在し、奥山放獣をする場所がない。

▼捕獲したクマを追跡すると、また元の場所に戻ってくる。きちんと忌避学習をさせることが重要。
▼クマには2種類がある。日常的に里山に住み、畑に依存したクマ。こうしたクマは人を恐れない。もう一つは奥山に住み、ブナの実などが凶作の時に里へ下りてくるクマ。加害性の高いクマは駆除せざるを得ない。
▼クマの特性を10段階ぐらいに区分し、きめの細かい対応ができる人が市町村にいないと駄目。
▼クマが増えた。それでも有害駆除は去年と同じ・・・それを何回も繰り返しているうちに里クマが増えた。人とクマとの間隔をとるためには、春クマの事前駆除でクマに人の恐さを教えておく必要がある。

▼有害駆除はわずか5頭、ワナ猟が37頭も。最近、狩りの哲学を持たない違法のワナが増えている。
▼春クマ狩りの有害駆除はわずか1頭。海岸部の猟友会は春クマ狩りをしない。ところがワナを仕掛けて何十頭も捕獲している。春クマ狩りをすると、クマは人間が恐ろしいことを学習し、里には下りてこない。

▼夏のクマは不味く、できれば撃ちたくない。できるだけ残し、事前駆除として旬の春にとりたい。
▼阿仁では、クマ対策として蚊取り線香をつけながら野良仕事をしている。捕獲したクマは攻撃性が強い。教育しても無駄ではないか。資源の有効活用を考えて欲しい。

▼里クマがやたら増えた。スイカ畑なんか一晩で一反歩を食い荒らす。
▼今年はカモシカを食っている話が多い。
▼ここ20年ほどの変化は、クマ狩りが奥山ではなく、ほとんど手前で捕れるようになったこと。狩りのラインが里に下りてきている。
 2004.11.10 日本経済新聞に掲載された白神山地西目屋村工藤光治氏の記事要約・・・クマを保護するのではなく、クマの被害を減らすことによって、駆除されるクマを少しでも減らしたい。マタギは本来、里に下りてきたクマを撃たなかった。何よりクマは特別な生き物で、神からの贈り物と考えてきました。だから「殺す」ではなく「授かる」といいます。

 マタギは、山の神よりクマを授かると、神に感謝しクマの魂をあの世に送るために儀式を行います。そして、全てのクマの部位を余すところ無く大切に使い切ります。有害駆除で殺されたクマの大多数は、埋められるか、燃やされるか、ゴミのように処分されたのではないかと危惧しています。

 白神山地が世界自然遺産に指定される過程で、様々な制約が課せられ、マタギは、先祖代々大切に守り続けてきた猟場を失い、後継者も不足し、今や絶滅の危機に瀕しています。このままではその生活文化まで失われてしまう・・・と訴えています。

▼こうした村の危機を共有しないと、研究も成り立たない。狩りは、獲物を捕ることだけが注目されているが、実は、人間が他の野生動物に対してナワバリを主張することだったことを忘れてはならない。

山是神仏のような山寺を歩く
 「山寺」の名は、山好き人間にとって魅力的な呼称である。仏教の歴史や宗派に興味はないが、天高く聳える奇岩、凝灰岩に刻まれた供養碑、古木、岩山に立つ仁王門・・・「山是神仏」のような不思議な霊力を感じる。古くから庶民信仰の山、先祖供養の山、死後の魂がかえるべき山として信仰されてきたことを体で感じ取ることができる。事前の知識は全くなく、どこに万三郎伝説があるのだろうか・・・
 根本中堂−立石寺本堂・・・お堂の入り口にある「招福布袋尊」を皆触ってお祈りをしている。具合の悪いところをさすれば、たちどころに直るのだろうか。本堂全体の約6割がブナ材で、東北を代表する伝統的建築物だという。
 「閑かさや岩にしみ入る蝉の声」・・・松尾芭蕉(1689年7月13日)。絶えることなく訪れる観光客や修学旅行の学生の群れ、残念ながら芭蕉が歩いた静けさはどこえやら。
 「山形藩の領内に立石寺という山寺がある。慈覚大師が開かれた寺であり、とりわけ清らかで静かなところである。・・・着いた時は、日はまだ暮れていなかった。ふもとの宿坊に宿を借りておいて、山上の堂に登った。岩に岩を重ねたような山姿を呈し、松や杉、ひのきは老木となり、古くなった土や石は滑らかに苔むし、岩の上に建つ多くのお堂の扉は閉じられており、物音ひとつ聞こえない。崖のふちをめぐり、岩を這うようにして仏閣を参拝したが、すばらしい景観は静寂の中でさらに映え、ただただ心が澄み渡っていくようであった。」(「奥の細道」現代語訳)
 私には、古く立派なお寺より、名もない路傍の地蔵に心惹かれる。子どもを象徴する風車を立てているのはなぜだろうか・・・親より先に死んだ子どもは親不孝者で、三途の川を渡ることが許されない。子どもたちは泣きながら河原の石を積み上げ塔を作る。できあがると、冥土の鬼がやってきて壊す。また石を積み上げる。また壊される・・・この苦しみから救うのがお地蔵さんだと言われている。
 苔生す地蔵とユキノシタ。「大」の字の白花を咲かせるユキノシタは、日陰の参道沿いにたくさん群生していた。葉は、精進料理として天ぷらに利用されている。ただし花は食べない。
 岩に刻んだ墓が至る所にある。「岩塔婆」というらしく、納骨を伴わない一種の詣り墓で、全国各地の人々が刻んだもの。
 開山堂・・・立石寺の開山・慈覚大師の坐像が安置されている。マタギの始祖と言われる万三郎は、日光権現の口添えで朝廷から奥羽地方の狩猟権をもらい、日光山から山寺に移り住んだ。そこへやってきた慈覚大師の教えで仏門に入り、立石寺の開山に協力したという。
 開山堂から岩の細い階段を登ると、最奥の五大堂に出る。五大堂から眺める山寺の景観は絶景そのもの。この時、万事万三郎の祠がどこにあるのか、全く知るゆえもなかった。何となく気になって、一般参拝の道から外れている天狗岩方向に向かう。
▼マタギの先祖・万三郎の祠は、図の左上五大堂から左に少し入った右手の岩穴にあった。
マタギの先祖・万三郎伝説
 五大堂から天狗岩方向に歩くと、平らな広場のような場所に出た。しかし、一般の通行が禁止となっていた。やむなく、戻る途中、やけに気になっていた岩穴の祠を撮影した。後で調べてみると、これが狩人の先祖・万事万三郎の祠だった。実にラッキーとしか言いようがない。

▼万三郎の父は猿丸太夫で立石寺の西谷に住んでいたといわれる。
▼万事万三郎の伝説は、一人の狩人説と万事と万三郎という二人の兄弟説がある。また表記も磐司磐三郎、万二万三郎など様々。
▼万三郎は、大師の教えを受け開山に協力したので「地主の神」として祀られている。高さ一尺三寸の木彫りの座像は現在、風化を避けるため秘宝館に移されているという。慈覚大師は、万三郎から山寺一帯を返させ、一切の殺生を禁じた。喜んだ獣たちが、そのお礼に踊ったのが「シシ踊り」。シシ踊りは8月7日、まず万三郎の祠の前で踊られ、次に開山堂に移るのが習わしになっている。
 殺生を禁じられた万三郎は、猟場を求めて宮城県綱木山に移り住んだ後、秋田県阿仁町大阿仁に移った。万三郎伝説によると、阿仁マタギこそ万三郎の直系の子孫で、マタギの本家としての誇りを強く持っているという。(写真:秋田県阿仁町の棚田と森吉山)

▼「ここの部落がマタギの発祥の地だといわれてるけどもしゃ、大昔、磐司磐三郎という人がこの根子さきて部落の者と一緒に狩りをしたんだそうだ。その当時の旅人だべしゃ。それからこの部落でマタギがはじまったのしぇ。・・・磐司磐三郎という人は宮城の人らしいども、山寺で修行して、山の中を歩いているうちに今の大館の十二所の方にきたそうだ。」(「マタギ-森と狩人の記録-」田口洋美、慶友社)
 「山達根本之巻」(日光系)・・・阿仁に伝わる巻物の大半は日光系。代々マタギの家には「山達根本之巻」という巻物が伝えられ、神棚などに秘蔵されていた。昔、狩りに出掛けるときは必ず身に付けていた。山達とは山での狩りを意味している。

 巻物にはどんなことが書かれているのか・・・今から約1,150年程前、栃木県日光山に万事万三郎という天下無双の弓の名人がいた。鳥、シカ、サルなどの狩りをして暮らしていた。日光山の神・日光権現は、万三郎に、仲の悪かった赤樹明神をやっつけてほしいと頼む。合戦で万三郎の弓矢は、大ムカデになって襲ってきた赤樹明神の両目を貫き大勝利。

 大喜びした日光権現は、宮中に連れて行き、天皇からおほめの言葉をもらう。以来、日本中どこの山でも鳥獣の殺生を許された。山達する者は、月の15日は水垢離をとり、精進潔斎して身を清めよ。また「無南西方無量寿覚仏」と一日千回ずつ唱えると、一切のケガレが祓われる。

▼「山達根本之巻」は日光系で天台宗。「山立由来之事」は高野系で真言宗。
▼仙北・由利地方には、阿仁マタギと同じくほぼ同じ巻物が伝わっている。そのほとんどが写しで、誤字、脱字、当て字も多い。
▼岩手県沢内村田茂木野は、秋田マタギの影響が強く、阿仁から日光系の巻物の写しが伝わっている。マタギの始祖と言われる万三郎についても、万事万三郎、盤次盤三郎、盤司盤三郎、万二万三郎、万治万三郎など、その名がまちまちに写し書かれている。
 少子高齢化時代の山村、過疎化から廃村化へ・・・奥山のクマに加えて、人間を恐れない里クマが出現。2006年6月14日、長野県でタケノコ採りの男性が、クマ避け鈴や大音量のラジオを持っていたにもかかわらず、クマに襲われ死亡したというニュースには驚かされた。自然に背を向け、ひたすら金と便利さを追い求めてきた50年。日本が捨てた宝物・「自然と人間と文化」の再評価と、50年、100年後を見据えた持続可能な山村の再生が問われているように思う。
参 考 文 献
「名勝史跡山寺案内書」(立石寺)
「マンガ日本の古典25 奥の細道」(矢口高雄、中央公論社)
「日本の神々と仏」(岩井宏実、青春出版社)
「マタギ-森と狩人の記録-」(田口洋美、慶友社)
「マタギ 消えゆく山人の記録」(太田雄治、慶友社)
「最後の狩人たち」(長田雅彦、無明舎出版)
マタギサミット配布資料

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