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秋田県東成瀬村手倉〜岩手県胆沢町下嵐江・・・仙北街道(仙北道)を歩く山釣り紀行
 仙北街道は、仙台藩と秋田藩を結ぶ最短ルートとして奥羽の歴史に登場したのが宝亀7年(776)。何と1200年余りの歴史を持つ。岩手県側では「仙北街道」、秋田県側では「仙北道」あるいは「手倉越」と呼んだ。この古道の魅力は、ただ歴史が長いというだけではない。一帯は、1990年3月、白神山地や八幡平玉川源流部とともに、栗駒山・栃ケ森山周辺森林生態系保護地域に指定されている。そのど真ん中を横断し、現在もなお開発から逃れて、ほぼ昔のまま現存している。つまり現代に残された「奥の細道」あるいは「奇跡の古道」とも言えるだろう。
1200年の古道・仙北道ルート図
 秋田県東成瀬村手倉の起点に設置された古道の案内図。もともとは、6里・24kmの道程だが、ブナ原生林を縫う古道は、その約半分、13kmである。
仙北街道拡大図
 仙北街道ルート図はカシミール3Dで作成・・・拡大図(186KB、139KB)はMAP画像をクリックしてください。

 今回のコースは、秋田県側東成瀬村の起点・豊ケ沢林道終点(標高約850m)から峰伝いに柏峠(1018m)、中山小屋を経て、小出川を渡渉し、栃川、ツナギ沢沿いの古道を歩き、見晴らしの良い大胡桃山(934m)を越え、峰伝いに下って岩手県胆沢町側の起点になっている大寒沢林道終点に至る約13kmである。かつては、豊ケ沢林道終点は狭く、車を1〜2台しか止められなかった。今は、手前に新しい駐車スペースが設けられ、4〜5台はゆっくり駐車できるようになった。ただし、林道には標識がなく、迷いやすいので注意。 
 丈の倉・・・林道終点から急な斜面を登ると「十里峠」、アップダウンの続くピークに仙台藩と秋田藩の境界「藩境塚」の標柱がある。ここから下ると、道中唯一の小沢がある。ここで水を補給し、稜線沿いに進むと、まもなく視界は一気に広がる。ヤセ尾根が続く丈の倉付近は、天気が良ければ、焼石岳が一望できるが、この日はあいにく分厚い雲に覆われていた。
 丈の倉左手に、深いV字谷の「岩の目沢」を望む。
 柏峠(1018m)・・・「引沼道」「5本ブナ」を越えると、道中最も高い「柏峠」に達する。山頂は、深い笹薮や潅木類に覆われ、見晴らしが悪いのがちょっと残念だ。「柏峠」と刻まれた標柱は、地元で採れる「合居川石」を使用している。地名や旧跡に設置された標柱は、古道を復活させた東成瀬村「仙北道を考える会」と胆沢町「仙北街道を考える会」の皆さんの労力奉仕によって成し遂げられた。古道を歩く旅人にとって、こうした標柱は、願ってもない目印になるだけに、歴史のロマンを追う両町村の情熱に感謝を捧げたい。
 かつて、柏峠以遠は、薮と化していたが、今はご覧のとおり、薮が刈り払われ、迷うこともなく快適に歩くことができる。まるで手入れの行き届いた登山道を歩いているような気分だ。
 歩くにつれてブナの森も深くなる。周辺を見回すと、200年〜300年ほどの巨木が林立し、1200年余りの古道を歩く気分は満点だ。ブナの林床は、太い笹薮に覆われ、6月頃には極上のタケノコがたくさん生えるだろう。今度は新緑とタケノコの季節に歩いてみたいと思った。つまりこの古道は、四季折々、趣の違った景観と山の恵みがあるだけに、一度や二度歩いただけでは、とてもその全貌を体感することはできない。それだけに楽しみは無限だ。
 山神の石碑・・・江戸時代・文化年間の年号が刻まれた道中唯一の旧跡。「山神碑拓本」によれば「文化二年 前沢町□□屋 世話人・・・山神・・・吉左エ門 田子内 喜□□ 七月十二日」と解読されている。この「山神」の石碑は、難所が続く街道を行き交う人々の精神的な支えになったことは間違いないだろう。それだけに我々も往時を偲び、酒とオニギリ、賽銭を置いて、道中の安全を祈った。
 古道沿いに林立する樹種はブナがほとんど。たまにミズナラやナナカマドが混じる程度で、奥羽山脈によく見られる杉やヒバなどの針葉樹は皆無。改めてブナの純度の高さに驚かされた。
 雪圧によって根元が曲がったブナは、一帯の雪の深さを物語る。かつて背負子たちは、50キロもの荷を背負い、アップダウンが続く古道を歩いたと記録されている。早朝手倉を出て、中山小屋まで12キロ、往復24キロもあるが、日帰りで往来したという。20キロにも満たない荷を背負い、何度も喘ぎながら休む現代人には、とても想像だにできない凄さだ。
 やっと見つけたナメコ・・・今年は冷夏で米も不作だが、キノコも不作のようだ。ブナの風倒木は、至る所にあったが、キノコの気配はほとんどなかった。道草道中にとって、あわよくば、マイタケなどと思ったが・・・。
 古道沿いに佇む老木のブナ・・・江戸時代以前は、確かに表街道として活躍したが、北上市から横手に出る街道が利用されるようになると、難所が続く仙北街道は、裏街道としての役割を担うようになる。つまり参勤交代や武士、商人など上流階級が利用する道ではなく、民百姓・背負子や旅人、土方、坑夫、藩から追放された罪人、乞食、浮浪者、飢餓難民、旅マタギ、隠れキリシタンなどが往来した。仙北街道は、言わば「人生の裏街道」と形容したくなる歴史を持つだけに、なお一層心惹かれる。
 今年は岩手も宮城も米は大不作。冷害と言えば、時に天保7年(1836)、胆沢地方一帯が大飢饉に見舞われた冬場に、前沢の商人が秋田より米を三千俵も買い付け、仙北街道を運んだ。古文書には、薪取り人夫や雪踏人夫が雇われたことが記されている。当時、米と酒は「山越え禁止品」であったが、裏街道にふさわしく、どうも裏取引で行われたらしい。
 粟畑・・・「笹道別れ」「ツラコブ」を下ると「粟畑」と刻まれた標柱に達する。ここから仙北街道の中間地点「中山小屋」も近い。
 中山小屋・・・秋田と岩手の荷物の交換を行った中山小屋の跡。標柱が設置されている右手に平らな場所がある。ここに中継所兼仮倉庫であった笹小屋があったのだろう。旅人の一夜の宿としても活躍したらしく「お助け小屋」とも呼ばれていた。小屋には、常時鍋と椀が備えられていた。手倉からここまで3里・12キロ、ちようど半分の道程である。

 記録によれば、仙台藩からは三陸海岸、北上川でとれた魚類、日用品では、金物、南部鉄瓶、荒物、小間物、衣類、黒砂糖など。秋田藩からは、藩外持ち出し禁止となっていた米、酒などが代表だったと記されている。
 「中山小屋 十三年八月」と刻まれた刻印。
 中山小屋を越えると急な下り坂となる。上の写真は、苔生したブナに群生していたホテイシダ。まるで「ブナの胸毛」のようにも見える不思議な光景だった。
 ギンリョウソウ・・・別名・幽霊花とも呼ばれている。ローソクの炎で下に垂れ下がったようにも見えるから、この花に向かって手を合わせれば、祈りが通じるようにも思える。
 ここまで来れば、眼下から小出川の沢の音が聞こえてくる。小躍りしながら、急な斜面を下る。
 やっと小出川に達する。豊ケ沢林道からここまで約7キロ。右岸の古道沿いに「小出の越所」と刻まれた標柱がある。このすぐ傍に東京からやってきたというパーティがテン場を構えていた。話を聞くと、明日は東山沢を詰め、明後日は、柏沢を詰めて仙北街道を下る計画で、ここに3泊する予定だという。この上流にも、もう一組のパーティがいるらしい。やむなく本流探索は諦め、下流にテン場を求めることにする。

 記録によれば、小出川が増水した時は、渡渉できないことも度々あったらしく、中山小屋と小出の越所に「お助け小屋」と呼ばれる合掌造りの笹小屋があったと記されている。
 大高鼻沢が合流する地点の右岸テン場。テン場を構えるには、風倒木を簡単に採取できることが絶対条件だ。当たりを見回すと、残念ながら風倒木が見当たらず、別のテン場を探す。
 流れが変わった栃川右岸のテン場には、大量の風倒木があった。周りは深いブナの森に包まれテン場としても一級品だ。いつものようにブルーシートを張り、テントをセット。その後、ブナの風倒木を大量に採取する。熱いコーヒーを飲みながら、時計を見ると既に午後4時を過ぎていた。
 9月下旬ともなれば、谷が暗くなるのも早い。暗闇になるまで僅か1時間しか残されていなかったが、夕食用に私と美和ちゃんは栃川を釣り上った。東京からきた二つのパーティは、この栃川を下ってきたはずだから、イワナの期待は余りなかったが・・・。
 最初はアタリが遠く駄目かなと思われたが、谷が薄暗くなると、意外にもイワナは猛然と餌を追うようになった。大きな瀬尻では、竿をのされて大物を逃がすハプニングもあった。美和ちゃんが3尾、私が2尾、計5尾をゲット。満足の釣果に足取りも軽くテン場に戻った。
 栃川のせせらぎの音を聞きながら、盛大な焚き火を囲み、いつもの源流酒場が開宴。イワナのタタキ風刺身、唐揚げ、卵の酢醤油和え、ナメコとブナカノカの味噌汁、ミズのコブコの塩昆布漬け・・・「山神」に献上したお神酒を熱燗にして飲む。いつものことだが「美味い、美味い・・・」の連呼が続く。初めて豊ケ沢林道終点から小出の越所まで踏破しただけに、満足感で心が弾んだ。

 イワナのタタキ風刺身の作り方・・・コッフェルにぶち切りにしたイワナの刺身を入れ、スライスした玉ねぎ、みょうが、しょうが、にんにく、醤油、味の素を入れてよくかき混ぜる。コッフェルに蓋をし、馴染ませるように上下に振る。そのまま30分ほどねかせてからいただく。材料となる玉ねぎが重いのが難点だが、ボリューム満点で美味しいことこの上ない。ぜひオススメしたい一品だ。

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