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鴨川、山紫水明、床・川床文化、染井の名水、下鴨神社・糺の森、哲学の道と市電
 京都には昭和47年から53年まで6年間住んでいた。奇しくも、京都を離れた年の9月に京都から市電が消えた。住んでいた場所は、吉田寮に2年半、下鴨に1年半、三宅八幡に2年・・・友人の下宿先に居候したことも含めると、4度も下宿先を変えた。50歳を過ぎてから、再び京都を歩いてみると、やっぱり貧しき学生時代の懐かしさがこみ上げてくる。(写真:下鴨神社糺の森・奈良の小川)
京都は「水の都」
 京都は住んでみると分かるのだが、お世辞にも気候が良いとはいえない。盆地特有の気候で、冬は底冷えする寒さが続き、一転夏になると、クソ暑く、寝苦しい日々が続く。何でこんな所に都を作ったのかと疑いたくなるほどだ。しかし、それだけに涼を誘う水の文化は秀逸である。
 清流鴨川の水辺に遊ぶカモ。

 北から賀茂川と高野川が流れて、下鴨神社で合流すると鴨川となる。地下には豊かな水脈があり、特に下鴨神社から御所、神泉苑に至る一筋の線は、地下水の命脈と言われ「千年の水脈をたたえる都・京都」と形容されている。下鴨神社中州の地点は、かつて京都を潤す地下水の水位を観測する地点だった。
 山紫水明・・・この言葉は、もともと鴨川の風景から生まれた。京都の町は、四方を山が囲み、町を流れる鴨川はよく澄んでいる。夕日に映える東山を背景にした鴨川の風景は、特に美しく、山紫水明と表現されてきた。儒学者の頼山陽は、丸太町橋近くの鴨川のほとりに居を構え、この書斎を「山紫水明処」と名付けた。この書斎は、萱葺き屋根のまま保存され、頼山陽の子孫が管理している。
 江戸時代の鴨川は、かなり広かったらしい。現在の河原町は、文字通り河原だった。現在の河原町も先斗町も実は埋め立ててできた町である。川床で涼をとりながら食事を楽しむという、京都独特の床(ゆか)の文化は、河原で焚き火を囲み食事を楽しむ山釣りとどこか通じるものを感じる。これは、室町時代から始まっているというから驚きだ。(写真:四条大橋から鴨川を望む)
 最初は鴨川の中洲に床几(しょうぎ)の床を置いていた。江戸時代になると高床式の川床が現れ、床几形式と併存していたらしい。大正時代に鴨川の河川改修が行われ、高水敷に人工水路の「みそそぎ川」を開削し、その上に床が出される現在の形態になった。鴨川では「床(ゆか)」と呼び、京都の源流・貴船では「川床(かわどこ)」と呼ぶ。
現存する京都唯一の名水・梨木神社「染井の名水」
 河原町通に京都府立医大、その西向かいに立命館大学(現在は衣笠に移転)があった。そのすぐ西隣に京都御所がある。その入り口手前の右手にある梨木神社は、観光の名所から外れた名水の神社だ。地元では萩まつりで有名な神社だが、よそ者にはほとんど知られていない。右手の門を越えるとノーベル賞学者の湯川秀樹博士の歌碑がある。

 千年の昔の園もかくやありき/木の下の乱れさく萩

 湯川秀樹は、この神社の会会長だった。
 染井の名水・・・京都の三名水と言えば、醒(さめ)ケ井、縣(あがた)井、染井である。この三名水のうち、現存する名水が染井の名水である。残念ながら、市電が消えて地下鉄ができたために、地下水の水位が下がり、ポンプ式の井戸水になっていたのは寂しい。
 今も朝早くから行列ができる名水だったことに安堵を覚えた。この名水は、茶の湯に適し、お茶同好会、喫茶店、京料理などに利用されている。ここにも水の都の面影が色濃く残っている。
下鴨神社・糺(ただす)の森
 「糺の森」を流れる「瀬見の小川」・・・三角州に位置する下鴨神社は、水の都を代表する名所だ。巨木が林立する糺の森と清らかな小川は、けがれた身を浄めて心を洗う神聖な場所。伝承によると、この森の中で、人々のもめごとを聞き出しては裁きを下していたという。つまり、森の霊が嘘を見抜き、偽りをただすことから「糺(ただす)」の地名が生まれた。それにあやかって、森の南端に家庭裁判所が立っているのがオモシロイ。
 泉川・・・糺の森の東側を流れる清流。紅葉晩期の森とおびたたしい落ち葉に埋め尽くされた林床、鬱蒼とした森をせせらぎの音を発して北から南に流れている。江戸時代は、茶店が設けられ、川面に床机を出して涼んだという。みたらし団子は、ここが発祥の地である。
 奈良の小川で戯れる小鳥・・・下鴨神社に入る手前を東西に流れる小川を「奈良の小川」と呼ぶ。紅葉末期になった森の色を写し、流れは赤茶色に染まっている。その傍らで小鳥が無邪気に遊んでいた。
 糺の森は、時代劇のロケーションがよく行われる場所で、何度か撮影現場を見たことがある。最近では、藤田まこと主演の必殺シリーズもここで撮影された。
 河合神社・・・糺の森を散策すると、左手に河合神社がある。前日、雪が舞ったらしく、一際美しかった。「河合」とは、賀茂川と高野川が合流する地点を意味する。つまり、1200年前に平安京ができた当時から鴨川の流れの中心が変わっていないことを物語る。
 森の巨樹を見上げる。
 糺の森で絵を描く人・・・糺の森は、人間の感性を刺激する不思議なエネルギーがある。
 精霊が潜む森の奥に世界文化遺産・下鴨神社がある。上賀茂神社が雷神を祀っているのに対し、下鴨神社は湧き出る水を象徴している。この神社右手奥に御手洗川の源流が湧き出ている。この水に足をつけると身のけがれを落とし、厄除け、病除けになるという奇妙な神事がある。7月土用の丑の日に、老若男女が一斉に裸足になって水たまりに入り、神聖な水で不浄を流し去る。これを「足つけ神事」と呼んでいる。
 京都の街中で線としての森は多く見られるが、面としての森は少ない。糺の森は、今なお神の森としての森厳さを保っている。観光で行列ができるような喧騒を避け、静寂な空間を歩きたい人にとっては稀有な存在だ。
哲学の道と市電
 老若男女の散歩にピッタリなのが哲学の道。まず変に思うのが川の流れの方向だ。京都の川は、全て北から南に流れているが、その流れに逆らって南から北に流れている。これは、自然河川ではなく、人工的に作られた琵琶湖疎水の一つだからだ。疎水沿いには、桜の木がくまなく植えられ、花が咲く頃になると、まさに春爛漫の風景となる。そしてもう一つの疑問は、哲学の道に使われている石畳だ。
 京都は、路面電車が似合う町だった。その懐かしい市電が野外に展示保存されていたが、市電廃止から四半世紀も過ぎるとボロボロだった。その市電の線路には、たくさんの敷石が使われていたが、何と哲学の道にリサイクルされていたのには驚かされた。
 市電を支えた自然石が、二列に綺麗に並べられ、とても歩きやすい。風景にもよくとけ込んでいる。哲学の道という名前は、閑静な疎水沿いの道を西田幾多郎、和辻哲郎、田中美知太郎といった京都学派の哲学者たちが好んで歩いたことから名付けられた。
 哲学の道の一角に西田幾多郎の歌碑がある。「人は人吾はわれ也/とにかくに吾行く道を吾は行くなり」・・・この碑は、京都学派の心意気をよく表している。哲学者でなくとも、クソ暑い夏の京都を思えば、哲学の道沿いに流れる疎水を涼みながら歩きたくなるのも当然のこと。ここにも鴨川や糺の森の小川と同様、京都人の水との深い係わりを感じさせてくれる。

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