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 「バカの壁」(新潮新書、養老孟司)・・・この本がなぜベストセラーなのか。「バカの壁」というタイトルは、現代の矛盾を一言で言い表しており、内容よりもタイトルの勝利と言った感じがする。「話せばわかる」は大ウソ。テロや戦争、北朝鮮の拉致問題・・・みんな「バカの壁」を築いて、知りたくないことには耳を貸そうとしないではないか。「そのとおり」と思わず拍手をしたくなるほど、現実は「バカの壁」だらけ・・・

「バカの壁」一次方程式

 脳の活動は、Y(出力)=a(本人の感情や興味の係数)X(入力)という一次方程式であらわされるという。本人の興味係数aがゼロならば、出力もゼロ。aが無限大の場合、情報・信条は絶対的なものとなる。その典型が、原理主義。つまり、係数aがゼロか無限大の場合、話しても全く通じないことが分かる。

 昔から「馬の耳に念仏」といった諺があるように、これは何も目新しいことではないが、簡単な一次方程式で表した点が万人に分かりやすく目新しいところと言えるだろう。

 賢い脳もバカな脳も外見上の違いはない。何かの能力に秀でている人はいるが、別の何かが欠如している場合が多い。つまり人間は多かれ少なかれ「バカの壁」の中で生きている。「バカの壁」を持たないものは、全知全能の偶像・神以外にないのだから・・・。

世界の2/3は一神教

 この世に唯一絶対の「正解」など存在しないが、それだけに人間は唯一不変の「正解」を求めたがる。その行き着き先が一神教である。世界の2/3を占めるキリスト教、イスラム教、ユダヤ教は、一神教で唯一不変の「神=正解」というフィクションを信じている。

砂漠の思想と森の思想

 それではなぜ世界の大多数が一神教に象徴される一元論に陥ってしまったのだろうか。その答えは「砂漠の思想と森の思想」にあるように思う。

 1935年、和辻哲郎は「風土」で次のように述べている。「風土の現象を文芸・美術・宗教・風習等あらゆる人間生活の表現のうちに見出すことができる」・・・つまり「風土」が人間の思考に決定的な影響を与えることを見出した。

 日本は湿潤で森と水に恵まれている。そうした森の世界では、生ある者は滅してもそこからまた生をうむ循環・輪廻の思想が発達する。恵み豊かな森では、直接命をおびやかされる危険も少ない。人間の力だけでなく、森の恵みに依存して生きている。山にも川にも木にも草にも天変地異にも神が宿ると考える。例えば、森の世界では、道が二つに分かれていたとしても、そのどちらを選択しても死ぬことはない。仮に新しい第三の道を選択したとしても然りである。森と水が豊かな世界では、○×式の一元論は不要で、多元論、多神教となるのも当然のことだと思う。

 一方、砂漠の世界ではどうだろうか。水と緑のない世界では、一つ選択を誤ると、生命を失い、万物干からびてしまう危険が常につきまとう。そこには死から生への輪廻・循環といった発想は生まれない。頼れる者は自己のみで、他力は期待できない。例えば、砂漠の中で道が二つに分かれていたとすれば、常に右に行くか、左に行くかという二者択一の選択を迫られる。つまり、オアシスを外れれば死が待っているからである。曖昧な選択は許されない。そうした過酷な自然の中で生き抜くには、○か×以外の△などという曖昧な選択は許されない。かくして砂漠の世界では、周囲に対して敵対的・戦闘的な一元論、一神教が生まれる。砂漠に発して西進しながら形成された西洋文化も砂漠の思考を基盤にしていると言われる。残念ながら日本でも、水と緑を失った都会人を中心に砂漠の思考を持つ人が少なくない。「東京砂漠」とは、それを皮肉った言葉のように思う。

文明移動説と一神教

 古代文明は、気候が温暖で土地が肥え、農耕に適した大河の流域で発生した。それはほぼ赤道付近に集中している。インドでは、紀元前2,500年頃、インダス川流域に文明がおこり、早くから麦の栽培や水牛、羊などの牧畜が行われていた。当時は、亜熱帯性の森林と肥沃な土壌に覆われた草原であった。

 現在の砂漠もかつては森林であったという事実は、数々の化石によって証明されている。ところが、ある日突然、森の消滅とともに文明は滅んだ。その古代文明崩壊の謎は、何なのか。この問いに答える有力な説が、「森と文明の移動説」である。

 古代文明は、多量の塩分を含んだかんがい農業により急速に塩害が進行、自然サイクルを無視した過放牧、耕地拡大による森林破壊、自然の生態系を破壊した人間の活動は、そのツケとして異常気象を招いた。

 「森と文明の移動説」によれば、古代文明人は、数千年にわたって自然生態系の破壊を繰り返し、徐々に草原から砂漠へと自らの文明の基盤を失い滅亡、文明は豊かな森の大地が残る北へと移動したというのである。

 かくして、産業革命以降、文明の中心は、古代にあっては「辺境の森の国」であった北西ヨーロッパや日本に定着した。現在も砂漠は生き物のように拡大している。歴史は繰り返すというが、その愚を繰り返せば、その北には氷の世界しか残されていない。これが、現代文明を称して「行き止まりの文明」と呼ばれる理由である。

 日本も原生的な自然が残り少なくなったとは言え、いまだ森林面積は国土の約7割を占めている。一方、世界ではわずか3割にも満たない。自然と風土が人間の思考を左右するとすれば、キリスト教、イスラム教、ユダヤ教といった一神教が世界の2/3を占めるのも当たり前のように思う。自然との循環、共生、持続的な発展を望むのであれば、失われつつある森の思考を取り戻す以外に道はないように思うのだが・・・。
「バカの壁」・・・その多様性こそ尊重すべき

 小さな島国・日本の「自然と人間と文化」の係わり一つをとっても、地域の数だけ多様性に富んでいる。世界的視野でみれば、砂漠の思考と森の思考、そのどちらが優れているか、どちらが正解なのか、という優劣論、二者択一を迫る単純な問題ではない。砂漠の世界で生きるには砂漠の思考が必要であり、森の世界では、森の思考が持続的な発展に欠かせない。もともと世界統一の自然と風土は存在しないのだから、世界統一の「自然と人間と文化」も存在しない。ならば、その多様性こそ尊重すべきだと思う。

 砂漠の世界に森の思想を持ち込む、あるいは森の世界に砂漠の思想・一神教を持ち込んでも、無用の摩擦と混乱を招くだけだろう。つまり森の国・日本の常識は、砂漠・乾燥地域では非常識であり、逆に砂漠・乾燥地域の常識は、森の国では非常識となる。こうした地域の多様性を軽視あるいは無視し、それに優劣をつけて、世界統一の神、思想、文化・・・言い換えれば「唯一不変の正解」をめざすことは、無用な文明の衝突を引き起こすだけ・・・これこそ救い難い「バカの壁」ではないだろうか。

釣りバカ

 釣り人なら誰しも「釣りバカ」を自認したがるし、他人から「釣りバカ」と呼ばれて一人前などとも言われる。つまり「釣りバカ」という言葉は、釣り人にとって大きな勲章でもある。もちろんこうした釣り人は、釣り以外のことにはほとんど反応しない典型的な「バカの壁」を持っている。

 「バカの壁」に記されている愚かさと異なる点は、釣り人自身が「釣りバカの壁」の中にいることをはっきり意識していることである。また、それを承知で他人を「釣りバカ」と評するところが憎めないところでもある。

対象魚種別「バカの壁」

 釣りと一言で言っても、舟釣り、磯釣り、川釣り、湖沼釣り、渓流釣り、果ては対象魚も無数に存在する。釣る対象魚以外は外道と称し、蔑視的な扱いもする。釣り人が釣りの対象とする魚こそ最高ランクの魚であり、それ以外の魚にはほとんど興味を示さない。つまり釣る対象魚を○○とすれば「○○バカの壁」とも言える。

 例えば、渓流釣りを例にあげてみよう。渓流釣りは大きく分けてイワナ派、ヤマメ・アマゴ派に分かれる。同じ渓流釣りだが、その世界は「イワナバカの壁」「ヤマメ・アマゴバカの壁」と呼べるほど釣る対象魚を偏愛している釣り人が多い。ちなみに私は「イワナバカの壁」である。

釣法、リリースを巡る「バカの壁」

 渓流釣りでは、餌釣り派、テンカラ派、ルアー派、FF派と呼ばれる派閥?が存在し、それぞれ最高の釣法だと自負して譲らない。釣法別に「バカの壁」が存在している。餌釣り一つとっても頑固一徹に「ミミズ」だけで釣る釣り人もいる。彼いわく「ミミズを食べないような岩魚は、釣らない方がましだ」と豪語する。これもまた「ミミズバカの壁」とも呼べそうである。

 さらに食べるために釣るキープ派と釣りをゲームとして楽しみ、絶対に食べないキャッチ&リリース派、さらにはその折衷的な中間派もいる。この「キャッチ&リリース」を巡る議論を、ある掲示板で議論したことがあるが、「話せばわかるは大うそ」ということを痛感させられた。つまり、キャッチ&リリース派は、それを釣りの新しい文化と称し、金科玉条に信じる原理主義的な「バカの壁」を持つ傾向が強い。キャッチ&リリースの弊害は、リリースを免罪符に、自らの釣りの欲を抑えようとしない点だと思うが・・・そこには死から生への輪廻・循環といった森の思考が欠落しているように思う。

 一方、釣った魚は美味しく食べてこそ成仏するといった日本古来の釣りの文化を頑なに守ろうとする釣り人も少なくない。だからと言って乱獲を続ければ釣りの対象魚は激減する。当然のことながら、釣りの欲を律し無用な殺生はしないのが原則ということになる。しかし釣りの欲を律することは殊の外難しく、ここに大量の中間派を生み出す隙間が存在する。現在、渓流釣りで最も多いのは、リリースもするし、食べる分はキープもする、といった中間派であろう。そうした多様な選択を許容できるということは、裏を返せば、まだまだ日本の森と水が豊かな証左であろう。

 しかし、原生的な自然がどんどん破壊され、マナーの悪い釣り人の増加とともに天然の魚が激減したとしたらどうだろうか。もはや森の思考は通用せず、砂漠の思考・二者択一の選択しか残されていないだろう。キャッチ&リリースどころか、「釣り禁止」などという最悪のパターンに陥りかねない。そうならないために、釣りバカたちのやるべきことは山ほどあると思うが・・・。

山釣り「バカの壁」

 数泊の野営を伴う山釣りともなれば、日帰りの渓流釣りとは、全く異質の世界だ。つまり渓流釣りは、あくまで渓流魚を釣ることが主目的だが、山釣りともなれば、もはや魚を釣ることが主目的ではない。沢歩きにはじまり、イワナ、山菜、きのこ、山野草、現地調達の料理、焚き火、宴会…その拘りは、相手に一歩も譲らないほど「バカの壁」そのものである。この「山釣りバカの壁」にはまると、他の釣りに誘われても、一切反応しなくなるほどだ。養老氏に言わせれば、係数aは無限大で、さしずめ「山釣り原理主義」とも呼べるだろう。

 こうして「バカの壁」を考察してみると、この言葉は決して悪い意味での言葉ではなく、むしろ素晴らしいものを含んでいる。多趣味で知識がたとえ広くても、その人から学ぶものはほとんどゼロに等しいのではないか。たとえ一つの趣味しかなくとも、「バカの壁」と呼ばれる人ほど拘りが強く奥も深い人が多い。奇人変人と呼ばれる「バカの壁」的人間こそ、凡人には学ぶことが多々ある。さあ釣り人よ、誇りと自信を持って「バカの壁」にこもろうではないか。ただし時には「バカの壁」の向こうにも耳を傾け、その多様性を尊重することを忘れずに・・・。

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