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仙北マタギの文化を後世へ 秋田県中仙町豊岡
 鳥獣供養碑と仙北マタギ
 2002年11月10日、中仙町小滝川ダムで仙北マタギ「鳥獣供養碑28年祭並びに物故者合同慰霊祭」が開催された。当日は合同慰霊祭を祝うかのように初雪が舞い、身の引き締まる天候となった。

 中仙町豊岡地区の背後には、秋田県最後の秘境と呼ばれる和賀山塊の雄峰が聳え立っている。和賀山塊は、秋田・岩手の県境に連なる奥羽山脈中央部に位置し、和賀岳(1440m)、白岩岳(1177m)、朝日岳(1376m)など、県内最大規模の原生的流域が広がる山塊である。仙北マタギは、昔から秘境・和賀山塊を狩場とし、組織的な古い狩猟法を頑なに伝承してきた。鳥獣供養碑を建立した当時は、25名の仲間がいたが、その後28年の歳月が流れ、藤澤シカリをはじめ、13名がこの世を去った。残されたマタギ衆は、仙北マタギの灯を絶やしてはならないと合同慰霊祭を開催することとなった。
 鳥獣供養碑が建立されている小滝川ダム。背後の山が仙北マタギの狩場だ。
 鳥獣供養碑・・・仙北マタギを世に知らしめた名シカリ「熊とりさん公」とも呼ばれた先覚者が故藤澤佐太治さんだ。昭和47年、和賀山塊堀内沢の奥深くに「お助け小屋」(「マタギ小屋」とも呼ばれている)を完成させた当時、藤澤シカリは「マタギは獲る事ばかりでは駄目だ。動物を養う心、霊する心を持たねばならない。帰ったら供養碑を建立しよう」と語った。そのわずか2年後、昭和49年11月10日、見事に鳥獣供養碑を完成させた。当時、狩場を望む小滝川ダムは、現在のような道路もなく、山人しか歩かない杣道だった。マタギ仲間25名がリヤカーで資材を運び、苦労の末にやっと完成させた。

 碑の裏には「熊マタギ一同、発起人豊岡藤澤佐太治」と25名の氏名、村名が刻まれている。町村別の内訳は、豊岡11名、豊川3名、長野4名、神宮寺1名、角館1名、白岩4名である。この碑には、仙北マタギの「共生」の思いが凝縮されている。
 左:故藤澤シカリ 右:鳥獣供養碑を建立した物故者の遺影

 動物作家の戸川幸夫氏は、仙北マタギを取材した著書「マタギ・狩人の記録」(新潮社、1962年)で藤澤シカリを次のように紹介している。「現代に生きる名マタギの一人で、彼が行くところにクマが寄って来る、と言われるほどクマの習性に通じている」。彼は生涯に一人で獲った熊は約60頭、マタギグループのシカリとして獲った熊は約120頭と言われている。下界では優しい人であったが、ひとたび山に入ると別人のように厳しい人であった。「常に獲物は滅亡させぬように獲らねばならない」と、常々マタギ仲間たちに語った。我々マタギは山に生かされているのであり、自らの欲望を律し、山を敬い、山の恵みに感謝し、常に持続的な狩猟を続けるべきだとの強い信念を持っていた。ここが一般のハンターとは決定的に違う点だ。
 和賀山塊堀内沢の奥深い山中に、今なお仙北マタギの伝統文化が形として残っている。それが「お助け小屋」だ。鍵をかけず、万人に解放されていることから「お助け小屋」と呼ばれている。マタギと言えば、秋田県が発祥の地であるが、こうした小屋は近代化とともに次々と朽ち果て、今となっては、県内最後のマタギ小屋となってしまった。それだけに、稀有の財産と言えるだろう。

 お助け小屋は、鬱蒼としたブナ林に覆われ、清冽な水が音を立てて流れる別天地に建てられている。小屋だけでなく、その立地条件の素晴らしさをみれば、さすが山を知り尽くしたマタギたちだと感心させられる。かつては桂の大木の根元の空洞を利用し狩り小屋として利用していたが、昭和47年、現在のトタンぶき、合掌造りに立て替えた。
 仙北マタギの狩場の一つ、和賀山塊堀内沢上流マンダノ沢。原生的な広がりと奥深さ、渓谷の険しさ、美わしさ・・・どれをとっても県内一を誇る原始的な渓谷だ。地名を見れば「八龍沢」、「天狗の沢」、「蛇体淵」・・・と続き、昔から人間が容易に近付くことができない「聖域」であったことがよくわかる。写真は、仙北マタギとともに山釣りを楽しんだときの一コマ。
 合同慰霊祭は、鳥獣供養碑が建立されている小滝川ダムのほとりで厳粛に行われた。山の神様は、マタギたちの合同慰霊祭に感激したのだろうか、この日に合わせるかのように初雪をもたらした。
 神事・・・熊谷勲中仙町長、大野忠右衛門県議会議員、高橋規男中仙地方猟友会長、特別協力者・宮原和也社長、仙北マタギ、物故者遺族など多数参加して行われた。司会は、戸堀操仙北マタギ代表。こうした行事は、全国でも例がなく、仙北マタギの歴史と伝統を後世に伝えようとする参加者の熱意に頭が下がる思いだった。
 玉串奉奠の儀
 2000年1月11日、名シカリと言われた藤澤佐太治さんがこの世を去るなど、13名のマタギたちがこの世を去った。しかし、この碑がある限り、「自然と人間との共生」を実践した仙北マタギの歴史と文化は消えることがないだろう。 
 直会は「平熊会館」で行われた。料理で特筆すべきものは、北海道で捕獲してきた「エゾシカの肉」だ。スライスした赤味の冷凍肉は、さすがに美味く、「これを食べだら馬肉なんて食えねぇな」の声が飛んだ。
 乾杯の音頭は、仙北マタギ代表の戸堀操さん。私は車で帰らなければならず、ずっとジュースで我慢した。これは体に毒だった。でも、仙北マタギたちのいろんな話を聞けただけで有意義だった。滅び行くマタギ文化と言われて久しいが、新しく仲間入りした若いマタギ2名も参加していた。会話の中で「我々は単なるハンターではない」という誇りと自負を持っていることを強く感じた。ぜひ仙北マタギの文化を守ってほしいと願う。
 酒宴を盛り上げようと、白岩マタギ、豊岡マタギが自ら第二の人生を賭けて修行を重ねてきたセミプロ級の芸を披露。マタギの世界とは正反対の「演芸の達人」ぶりには心底驚かされました。まさか、「お助け小屋」で踊ったりしてないでしょうね。「はい、それは全くありません、山の掟はきちんと守ってます」とのことでした。いや〜、これには参りました。
 右端の高橋規男中仙地方猟友会長と故藤澤シカリの遺族(藤澤政勝さん夫婦)

 我々の祖先は、狩猟採集民族であったことは間違いないが、農耕文化が広まるにつれて衰退、田畑だけでは生きていけない山間奥地にマタギという独特の狩猟採集文化が連綿と引き継がれてきた。クマタカを調教し、獲物を獲る鷹匠という文化は、羽後町仙道の武田宇一郎さんを最後に滅んでしまった。最後のマタギと呼ばれる阿仁マタギや仙北マタギも、時代の流れには勝てず、滅び行く文化の一つであろう。それだけに、地域の人たちが仙北マタギの故藤澤シカリを先覚者として位置づけ、藤澤シカリが残した遺産・鳥獣供養碑を大事に守り継承しようとする努力に敬意を表したい。
 仙北マタギと山釣り(堀内沢マンダノ沢)

 マタギは、クマなどの大型獣を捕獲する技術と組織をもち、狩猟を生業としてきた山人たちのことである。今や「狩猟を生業」とする人はいないから、既にマタギは滅んだと言う人もいる。しかし、私はマタギは滅んでいないと考える。自然界の法則からはみ出さず、常に山を敬い、山の恵みに感謝する心を継承している狩人なら、単なるハンターではなくマタギと呼び続けたい。我々釣り人も単なる釣り人ではなく、山に逆らわず、山を敬い、山の恵みに感謝する心を持ちたいものだと思う。マタギの心は、狩人のみならず、釣り人、登山者、山菜・キノコ採りなどを問わず、誰でも継承できるはずである。そこから新たな「自然と人間との共生」の文化も創造できるのではないかと思っている。

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